中仙道第1日目 「京都三条〜瀬田唐橋」22918 

        残暑あり 快晴 日中雨なし
                          所要時間(グロス)7時間 歩数 約27,000

22日草津からスタートした「中仙道」。同伴者西田博一君が既に東海道歩きの時に三条〜草津をクリアしているので、草津を基点としてスタートしたが、私は未だ三条〜草津間は未知のコースなので、井野氏の協力を得てこの間の穴埋めをすることにした。

郡津駅を8:31に乗って三条まで行き東へ向って歩き出した。

やや暑い日であったが天候は申し分なし。大津に着いた時未だ陽は高く午後3時になっていなかったので、瀬田の唐橋まで歩くことにした。これがやや反省の原因になるとはこの時点では考えてもいなかった。予想したより距離があって時間がかかり、瀬田の唐橋に到着した時には周囲はやや暗くなっていた。お腹が減ったので、お店を探したがこの辺りは食事する場所が少ない。やっと見つけた唐橋近くの外食「ココス」で夕飯を摂った。

 

中仙道第2日目 「瀬田唐橋〜草津」221014 

快適時期 晴 日中雨なし
所要時間(グロス)4時間50分 歩数 19,822(自宅から

「一日一善」は好いのだが「一日一悪」や「一日一ミス」は如何なものか。このところの中仙道歩きは「一日一ミス」が多い。

今日、東海道瀬田駅で降り駅員に「瀬田の唐橋に行くのはどちら?」と聞いた。「唐橋は石山駅が近いです。ここからだと歩いて約50分ぐらいかかります」やむをえず一駅戻ることにした。

正直に言って私には今日の距離は思っていたよりも長かった。2時間ぐらいで歩けると思っていたが、街道沿いの名所見物などもし、休憩も入れて結局5時間近くかかった。

今回から郵便局を見かけたらいくらかを貯金することにした。今日は二局見かけトータル1500円貯蓄した。今後は1,000円ずつ入れる予定。

ランチ場所がなかなか見付からず、予備に2個持参した井野さんのおにぎりを一つもらって、凌ぎ、草津の商店街の「元・脇本陣」現在は「そばや」で、午後3時過ぎやっとおろしそばにありついた。

 




中仙道第3 「草津〜野洲」22622() 

所要時間:(グロス)時間不詳  歩数:計測せず

京都三条大橋から草津の宿までは、中山道は東海道と同じ道を共有する。草津までの道は中山道というよりむしろ東海道という呼び方のようだ。この草津までの道路標識は「東海道」とか「旧東海道」と書かれていたような気がする。中山道という表示は無かったように思う。この意味では、この3日目が中山道スタートの初日とも言えた。草津からのスタートだ。

同行の氏は小学校時代の同級生西田博一君。昭和208月大阪市内で戦災に会い、家も家財道具も一切失って疎開先で一緒になった。中学校まで一緒だった仲間だ。

 

JR草津駅から天井川のある東海道と中山道の分かれ道まで少し京都方面に戻り、道標を写真に収め、今日の目的地と決めた野洲方向に向かって商店街の中を歩き出した。伊砂神社を超えてしばらくのところで栗東動物病院の建物を写真に収めたが、実はこの辺りで左折しなければならなかったのを直進してしまったので、大きく道と時間をロスしてしまった。『光円寺』というお寺の門際に運良くこの寺の大黒さんの姿を認め、この人に尋ねて道が間違っていることを始めて知った。葉山川橋、花園、栗東駅西口、と過ぎ「大宝神社」で中山道最初のお弁当を食べる。二町東、えんま堂町を過ぎ守山宿に。守山石造り道標、街道文化交流館、本陣推定地、を通り過ぎ背比べ地蔵で休憩。朝鮮人街道を過ぎると野洲小学校前に到着した。実質第一日目の中山道歩きはここまでにして駅前のお風呂屋さんのレストランでお疲れ会代わりのビール一杯。今日はここからJRに乗って帰る。

 

中仙道第4 「野洲〜武佐」22723() 

所要時間:(グロス)時間不詳 歩数:計測せず

 

先日の終着ポイントになった野洲小学校前が今日のスタート地点だ。近くの掲示板に「中山道は東山道あるいは中仙道と呼ばれた時期がありましたが、その歴史は古く、大化の改新以前から存在する重要な道であったことを示す文献が残されています」と書かれていた。

さて、正門前の道を斜めに入る。

直ぐに稲荷神社前に到達。「中山道三つ坂この辺り立場」の文字を見て進めば道の左側に「甲山古墳、円山古墳右200m」の標識。古墳は人の手によって管理されており立ち寄ってみる。「篠原神社」「平宗盛胴塚」を経て道の駅があった。この辺りで疲労がかなり溜まっていたのでここで小休止。冷房の建物に入ると外へ出るのが億劫になる。ATMで冷たい缶ジュース。一息ついた。「竜王鏡の里・源義経元服の地」と鏡神社の案内板に記載されている。「武佐宿」の立て看板を見て「伊庭貞剛翁生誕の地」を過ぎれば近江鉄道の武佐駅。今日はここまで。

.

 


中仙道第5 「武佐〜愛知川」22815() 

 

所要時間(グロス)時間不詳  分 歩数 不詳   歩

 

近江鉄道八日市線武佐駅で降りる。中山道は駅の直ぐ前を通っている。

ほどなく
1989年武佐小学校卒業生(寄贈)の看板のかかった「本陣跡下川家」の前に到着。つづいて大橋家、商家、役人宅「米油などの商家また武佐宿場の伝馬人足取りしまり役人裏に名園あり」の看板のかかった建物。
真新しい宿名の書かれた立看板や「ここは中山道第六十七番宿場武佐宿です」の文字が入った説明看板。

この宿も街道を行く旅人に親切だ。
魚友楼という老舗らしい料理屋の前を通り、武佐宿脇本陣跡に来た。ここから直ぐの所に「明治天皇御聖蹟」の石碑。宿場を過ぎて「西福寺境内 泡子地蔵尊
200m」の看板。奥石神社、浄敬寺、を過ぎ国道と分かれ道の角に大きく目に付くモニュメント。人の背丈より大きい石碑、「旧中山道」という文字が彫られた石柱の上に荷を担ぐ人の像。もちろんいわれがあるに違いないが勉強不足でいわれを書けない。先を急ぐ。いつの間にやら「愛知川宿」に入ったらしい。
「中山道恵智川宿(旅籠竹の子屋)竹平楼」と書かれた古い建物の前に差し掛かる。八幡神社を過ぎると「中山道愛知川宿」の新しい石柱。

今日の予定はここまで。

注 中山道を歩き出した当初は、まだ歩き方に慣れず一日一宿間を歩くペースであった。あとから振り返るともう少し距離を稼いでおいても良かったかなと思う。しかしまた時間の余裕があったので途中のモニュメントや名跡、景色など愛でることも出来た。後半近くなると歩行距離も伸びた代わりに途中のモニュメントなどを楽しむ余裕が少なくなった。


中仙道第6 「愛知川〜高宮」22826() 

 

所要時間(グロス)時間不詳  分 歩数 不詳   歩

 

82回目の中山道である。ここ3,4回は近江鉄道にお世話になる。今日も愛知川駅に降り立った。今日は高宮宿まで歩く 予定。

歩き出して暫く「河脇神社」を過ぎ、愛荘町沓掛の看板が大きく電柱にかかっているのを横目に過ぎる。豊郷スポーツ公園と大きな石に彫りこまれている。程なく「江州音頭発祥の地」と掘り込まれた3メートルほどの大きな石柱。日吉山千樹禅寺、豊会館の前には三笠宮ご来館記念樹。金田池、天雅彦神社、を過ぎると伊藤忠兵衛記念館。大阪の住人であれば子どもの時から「伊藤忠」として聞かされている名前だ。ここは無料見学で日付けと名前を記帳させてもらった。直ぐ横の広場の前には「伊藤長兵衛家屋敷跡」と書かれたこれも大きな石碑。

暫く行くと民家の板塀に「中山道一里塚の郷石畑・ごんろく通り」と書かれた木札。

この辺りは愛知川宿と高宮宿の中間の地として「石畑」を任じているようだ。この板塀のもう一方の端に「島原手延べ素麺九州の味販売しています」と書いた大きな木の広告看板があったがこの地で九州の素麺とは何の意味があるのだろうか。しかしそれもゆっくり勉強せずに歩を進める。

このあたりは中山道の道すがらでも石碑や木製の表示看板が多い、というよりも旧跡や名跡がしっかり表示されている。この辺りからしばらく行くと中山道葛篭町の石碑。そしてこれぞ中山道といってもいい松並木の道に入る。道の両側に松の木が続き広重の絵がそのまま現れたような気分。その道の一角に「おいでやす・彦根」の10メートルもあろうかと思われる石柱。

了法寺、環相寺を過ぎると「中山道高宮宿」と書かれた木の柱の横に「無賃橋」の表示。昔ここに無料で渡れる橋が架かっていたのか。この橋を渡りきるともうそこは高宮の宿だった。中山道に面して遥か先の「多賀神社」の大鳥居がある。実は私の先祖の墓がこの鳥居の傍のお寺の庭にある。つい先日お盆詣りをしたところだが立ち寄ってみた。大いに歓待され食べ物飲み物を頂いた。冷たい500mlのジュースを一気に飲む。このジュースの美味しかったこと。もう一本にも口をつける。この暑さでは何本でも飲み続けられそうだ。

今日はここまで。それにしても暑い一日だった。



中山道第7 「高宮〜鳥居本」2299() 
所要時間 時間不詳  分 歩数 不詳   歩

近江鉄道の踏切を渡るとすぐに右鳥居本宿、左高宮宿の木製の看板が目に入る。

暫く行くと「鳥籠山唯称寺」の立派な門に出会う。

正法寺町の信号を過ぎる。この辺りは舗装された田舎道という感じだ。

小さな道路橋の下を2つ続いてくぐる。道が少し昇りになりかかった際に中仙道原町の石碑。その周囲の植え込みの中に「五百らかん」の石碑。この辺りは標識が至る所にあって旅行く人間には心強い。

 未知の道路を歩いていて標識が途絶えると大変心細い。道際に「芭蕉昼寝塚」「祇川白髪塚」の石碑を見つけた。「小町塚」を過ぎると「ここは彦根市小野町」の木製看板をすぎて「彦根道との分岐点」というところがあった。彦根道とは時々お目にかかる「朝鮮人街道」のことらしい。いずれにせよこの三叉路の角がその分岐点になっている。
 やや行くと右手に「鳥居本郵便局」。どうやら鳥居本エリアに入ったらしい。早速1,000円の記念貯金をする。

 宿に入ると「脇本陣跡」の古くお粗末な看板。と思うまにひょっと左手を見ると「鳥居本駅」があった。

まだ陽も高いが今日はここで終わることにした。
                                                                鳥居本宿 広重

この絵を見たとき「ああ、あそこだ」と思った。 

鳥居本と番場の間にある「摺針峠」とそこから琵琶湖方面を見た絵に仕上がっている。

中山道のこの辺りの説明ではよく登場する風景で、私も広重の絵を知る前にここを通った

が、広重と同じかそれに近いポジションで見ていたように思う。
   







              中山道第8「鳥居本〜番場〜醒ヶ井」 22924() 
                               所要時間時間不詳  分 歩数 不詳   歩

今日もまた近江鉄道で「鳥居本駅」に到着し、直ぐ中山道に入る。
この辺りは駅と街道が近く隣り合っている。

駅近くの街道際に大きなのぼり「鳥居本宿場まつり・鳥居本お宝発見隊」と赤字に白抜き文字で書かれていた。家型の木製看板「合羽所木綿屋」「赤玉神教丸有川家」この赤玉有川家は万治元年(
1658年)創業で、今もその当時のままの製法で製薬しているとのこと。

この有川家の建つ同じ通りのあちこちに小学校の絵画の時間で生徒さんたちが思い思いの場所で、思い思いの姿で写生していた。覗き込んでも厭な顔一つしないでもくもくと作業中。最近では珍しくなった赤い郵便ポストの上に跨って描いている男子生徒。のんびり風景は都会派の人間には羨ましい。

この宿の看板はすべて家型の立派な木製に統一されているようだ。「鳥居本宿」の看板も同型。「鳥居本は江戸から数えて第63番目に当たる旧宿場町です」と書かれていた。
「旅しぐれ中山道松並木」の看板を見て「またおいでやす」の
3本の石碑。
続いて「中仙道」の石碑の表示。宿場を抜けて街道は少し山道になる、「摺り針峠・望湖堂跡」。望湖堂とは江戸時代ここにあった茶屋のことだという。この絶景の地で「するはり餅」を食べたと言う。建物は本陣構えで、寛政
7年頃は大いに繁盛していたらしい。
どんどん先を急ぐ。
広く見通しの良い田舎道といった場所に出た。「中仙道番場」と書かれた石碑。ここでお昼をとることにした。約
40分の休憩。西に向って行く二人連れを見かけたが少し道から入り組んだ所にいたので挨拶できなかった。

宿場の一角に石碑あり。「中仙道西番場・古代東山道 江州馬場駅」と書かれている。「番場」ではなく「馬場」と書いてあった。
「瞼の母・番場忠太郎地蔵尊」の背の高い木製の碑。「南北朝の古戦場」(蓮華寺)と同じ碑のもう一面側に書いてある。

もう少し行くと石碑「明治天皇番場御小休所」。中山道を歩いているといたるところに「和の宮様お休み処」の石碑に出会うのは、ここが和宮の500キロのバージンロードだったことで不思議ではないが、「明治天皇の御休処」に類した表示も結構多い。明治天皇は積極的に外へ出て民のかまどをその眼で確かめられたのであろうか。

「中仙道番場宿本陣跡」の石柱を見てこの宿ともお別れ、一途に醒井宿へ向って歩みを進める。
一里塚を過ぎ「樋口」の信号を経て、「湖北サイクルロード」と書かれた道端の表示を通り過ぎる。何かで読んだ「中仙道六軒茶屋」の前に来た。入り口が道路の表面より下っていて入り難い。
程なくすると「中仙道醒ヶ井」の石碑。直ぐ郵便局があったので1,000円貯金をしようと思って近づいて行ったが、これが何と元郵便局で今資料館。

醒ヶ井に来たので、予ねて噂に聞いていた「梅花藻」を見ようと、宿場内の「地蔵川」に足を向ける。10月だというのにまだ梅花藻を見ることが出来た。「西行水」も見物して醒ヶ井駅に向う

 

 
 中山道第
9
 「醒ヶ井〜柏原」 221011() 

                                    所要時間時間不詳  分 歩数 不詳   歩

 醒ヶ井の駅から先回の帰途覗いた地蔵川に出る。先ず足を向けたのは天然記念物「了徳寺の御葉附き銀杏」。樹齢約150年。この樹の銀杏(ぎんなん)は葉の表面いついていて細長い形で通常の銀杏と少し形が異なっているとのこと。昭和4年国の天然記念物に指定。また、私が御好みのNHKの番組「ダーウインが来た」の、先週放送の主人公「ハリヨ」が、この川に生息し、保護魚に指定されているとのこと。番組によるとこの魚の産卵と子育てが大変ユニークなんだ。

 今日歩行予定距離が短く時間的に余裕があったので、地蔵川に生育する「梅花藻」も再度ゆっくり見物した。この時期でもまだ観賞に耐える。
街道沿いに滋賀県高月町出身の儒学者「雨森芳州」の「水清き人の心をさめが井や、底のさざれも玉と見るまで」の詩が書かれた木製ボード。
 街道沿いにある「別雷皇宮」。この宿の紹介写真には、必ずといっていいほど、この宮から街道側を俯瞰で見た写真が出てくる。何気なく私が鳥居の一部を入れて写した写真も、観光案内に出てくる写真と同じアングルからの一枚であった。
「仏心水」という井戸を過ぎ「等倫寺」を過ぎればまだ新しい一里塚の石碑。やや行くと、まさに中山道に相応しい松並木の道になる。

   
何と見いえぬ風情のある町並み

                                                                                                                       
高宮の宿に入る前、豊郷近くにもこんな松並木道路があったのを思いだした。山際の道に入ると「ホタル、幼虫、カワニナをとらないで」と山東町教育委員会の名前で可愛い看板が建っていた。

大きな自然石に「←梓、柏原宿→」と書かれている。柏原宿ももうすぐだと感じる。しかしよく見れば左梓の文字の上には「東山道横川駅跡」、橿原宿の文字の上には「江戸後期大和郡山領」と白いペンキで書かれている。これはどういう意味か説明できない。
 「天の川源流菖蒲池跡」の石碑を見て進む。道横の林際に「中山道宿駅制定
400年記念植樹」として「街道並び松」の石碑。「北畠具行卿墓」の立て看板があったが、私はこの人のことを知らない。
                                                      地蔵川の梅花藻

 「柏原宿」の文字が目に入るようになってきた。そろそろ目的地も近いようだ。「豊穣整地碑」の大きな石碑は山際まで続く広々とした畑をバックにこちらを向いて建っている。
 
 次に大きく立派な「柏原一里塚跡」の石碑。珍しくここは「塚跡」が最近土盛されたように四角錐台の形で作られている。「旅籠屋 麻屋林右衛門」の木製表札、「是より明星山薬師道」の石碑、「「柏原銀行跡」の家型看板を過ぎると、人の背の倍もあるような巨大な木製の「中山道・柏原宿」の木碑。
                                                              
  水の美しさが見えないのが残念


「柏原宿歴史館」は珍しくないが、他の宿と少し違って見えたのは、門口に「旅籠屋◎◎」と表札を掲げた古くからありそうなお家がやたら目に付くことだ。
 元豪商「伊吹堂」を過ぎると、「吉村公三郎監督の思い出の橋。監督作品(川口浩、野添ひとみ共演」を生んだ)と書いた看板に出会う。この看板の意味は、解釈次第で違ってくる。

 の変哲も無い一軒の家の入り口に「皇女和宮宿泊 柏原宿本陣跡地」という新しい石碑。和宮の夫君徳川家茂も、長州征伐の途次立ち寄り一宿したという説明の書かれた粗末な木製看板も目に入った。看板だけでも見て回るに楽しい宿場だ。


   
            これほどはっきりした美しい一里塚は珍しい

                                                                 


   中山道第10 「柏原〜今須〜関が原〜垂井」22116() 

                                所要時間 6時間11分   歩数24,799歩


 JR柏原駅に降り立った時、駅プラットフォーム左側に広がる景色を見て、「中山道も随分遠くまでやってきたなあ」という感慨があった。
 しかし、あとで考えてみれば全体の半分にすら到達していない。まだまだ先は長い。充分楽しみは残っている、と考えるか、まだまだだと、考えるかはその人次第。

 歩き出して間もなく木製の道路標示があった。左矢印は「柏原宿」、右矢印は「寝物語の里長久寺」。中山道もここまで来るとなんとなく中山道らしくなってくる。

 今日一人で東から西に歩く60歳がらみの男性に会った。
「京都三条大橋までもうすぐですね。私たちは、まだまだ先は長いです」。
この男性は「京都三条へ着いたらこれで五街道制覇することになります。つぎは四国
88ヶ所に挑戦したいと思っています」ということだった。

この人に比べたらわれわれはまだ赤子の段階だ。なんだか元気が出てきた。

 やや歩いていくと「寝物語の里」。大きな石に彫りこんだ文字。由来の書いた石碑もある。「近江と美濃の国境はこの碑の東10メートル余りにある細い溝で仕切られていました。この溝を挟んで旅籠などが有り、寝ながら他国の人と話し会えた」のでここをこの名前で呼ぶようになったとのこと。その溝が道の右側にあって、溝の右側には「滋賀県」左側には「岐阜県」と書いた看板が立ててある。

「おくのほそみち芭蕉道」と書かれた新しい石碑がある。街道の看板や石碑に目を奪われているうちに今須の宿の郵便局の前にやって来た。早速1000円記念貯金。

宿場の街道には「問屋場」の立て看板。説明の最後は「関が原町」になっている。しかし程なく行くと「中山道今須宿」碑。
 今須宿を抜けると「今須峠」。あまり厳しい峠ではない。道際に「盤御前の墓」の看板。

 更に家型の看板には「黒血川」。壬申の乱で多くの兵士が斃れその血が川底の石を黒く染めたのがこの名のいわれとか。「大谷吉継の墓」を過ぎ、「西首塚」の横には「関が原古戦場」と彫られた石碑。

「三輪仏壇」という老舗らしき仏壇屋さんで道を尋ねたら、この屋のご主人が親切に教えてくれた。家に引き返し地図を持って来てくれた旅先ではちょっとした親切も大変嬉しいものだ。

 まだ陽が高いのでこのまま垂井まで歩くことにする。今日二つ目の郵便局を見つけた。例によって
1,000円貯金。

 野上「七つ井戸」というところを通り「県社伊富岐神社」の鳥居前を過ぎる。「西の見付と広重の絵垂井宿」の標識看板は、街道右側にあった。「明治天皇垂井御小休所」の石碑を通り過ぎると程なくして
JR垂井駅は目の前だった。


中山道第11日目 「垂井〜赤坂〜美江寺」 221118 

すっかり秋  快晴

所要時間(グロス)6時間50分 歩数約35000













さて今日のミスその1。垂井駅の改札を出て中山道と反対側の方角の階段を下りた。なんだか辺りの風景が先日この駅へ辿り着いた時と違っていると感じ駅員に確認。                       さて勇んで歩き出した。「東の見附」の看板、「相川の人足渡し跡」看板を横目に見て、川を渡ったところで美濃路と中山道の追分看板。「綾戸、大垣、旧美濃路、左平尾、赤坂、旧中山道」と書かれた文字は薄れて見え難い。「史跡中山道一里塚跡」を過ぎ「青墓宿」の看板前を通る。「史蹟照子姫水汲み井戸」、「聖地碑」「銀幣社白髪神社」「延長寺」を過ぎ昼飯町の信号を経て赤坂宿に到達。

兜塚、脇本陣跡、所郁太郎の碑を過ぎる。大垣市のクレジット付きの案内板には「街の中心にあるこの四つ辻は来たに向かう谷汲巡礼街道と、南は伊勢に通ずる養老街道の起点である」と書かれている。昔、港であったという街道に面した赤坂港跡で突然60歳ぐらいの叔父さんが現れ、あれが赤坂山だ、ここに港があったなどいろいろ教えてくれた。一里塚跡を見てさらに進んだ田んぼ道の真ん中で、京都を目指す二人連れの男性に出会い、しばし情報交換を兼ねて歓談。暫く行けば「揖斐川呂久渡船場跡」があり、和宮がここから渡船したという公園らしき場所で昼食をとることにした。いつの間にか田舎の叔父さんの典型のような、グリーンのトレーニング姿の男性が現れ、隣に腰を落ち着けていろいろ話し込んできた。私が話を打ち切って立ち上がらなければいつまでも話し込んでいただろう。楽しかったがここでのロスタイム?があとになってこたえることになる。「大月山願照寺」というところで、進む方向がわからなくなった。N君が向こうの方に見える店屋さん走って行って正しい方向を確かめてきてくれた。正道に戻った時には日が暮れ始めていた。そして本日最大の失敗。美江寺駅に着いたときには、1時間に一本しかない電車が5分前に出た後であった。辺りは真っ暗になっていた。

今日のミスその21時間に一本しかない美江寺駅の電車を5分差で取り逃がした。これは全く単純なミスである。美江寺到着の1時間前に虫が知らせたのか時間表を見なければならないかなとチラと考えていたのに実行しなかった。これが大きな反省材料。次の電車まで1時間15分ある。今日は時間の感覚が余り無かった。目的地に到着した時に陽がすっかり落ちていたのは今日が初めて。その上この樽見線「美江寺駅」は全くの田舎駅。改札も無い。駅員ももちろん居ない。プラットフォームは一つ。多分私が今まで見た駅の中でもっともみすぼらしい駅。

さて一時間以上この真っ暗な未知の地で過ごさねばならない。先ず腹ごしらえだ。暗い中に光が漏れている。これが散髪屋さんだった。ここで教えてもらった運送会社ビルに行き、一軒のうどん屋さんがあるのを知った。これがまた思ったより遠い。暗い田舎道をどんどん歩いて新築のうどん屋に到達。きつねうどん金780円也は本当に美味しかった。

今日は京都でいつものようにお疲れ会はせずに直帰することにした

 

中山道第12日目  「美江寺〜河渡〜加納」22128() 

思っていたよりずっと暖かい日 快晴 所要時間(グロス)6時間分 

歩数約25000(携帯)16,600歩(万歩計)


 美江寺駅。この駅に来るのはこれで
3回目。最初は1114日の「なばなの里」から車での帰途、駅の傍を通り過ぎた。次は前回の最終目的地として、陽が沈んで暗くなってからこの駅から電車に乗って帰った。しかし前2回はいずれも夜ないし夕方。明るい陽の下で見るのは今回が初めてだ。しかしはっきり言って申し訳ないが全く寂しいみすぼらしい駅である。
                  
    美江寺駅の寂しいこと


さて今日は美江寺〜河渡〜加納の10,5kmを歩く予定。

「美江寺宮前町」に続き「美江寺五六町」の信号を過ぎる。畠の中の一本道という感じ。舗装された道の左手に「この道は旧中山道です」という地味な看板が立っている。「本田松原」の信号を過ぎると程なくして「高札場跡」の標示。次に見たのは「本田西町」の信号に付いた標示板。続いて「本田代官所跡」の標示看板。郵便局を見つけたのでここでも1,000円貯金。「河渡2」とかかれた信号。これは「ゴド」と読む。道路わきに石碑を見た。「河渡宿は東に長良川、西南に糸貫川、北に根尾川があり土地も低く白雨雪舞の折には泥沼となった云々」と書かれていた。河渡宿を抜けると河渡橋、もちろん長良川に架かっている長い橋だ。ここへ来るまでは、河渡で長良川をわたる「渡し」に乗るのを楽しみにしていたが、毎月21日だけ開業している、ということで今日は断念せざるをえなかった。

昼食は長良川の雄大な河堤で食べた。何処からか自転車に乗った男性が目の前30mほどの河原に現れてスケートボートの練習をし始めた。川風がビニールの袋を何処かへ吹き飛ばしてしまった。探したが見つからなかった。河渡橋を越え暫く行くと家並みの中の道に差し掛かっていた。もう加納宿が近いのだろうか。「天満天神」の大きな石の鳥居、「神明社」の鳥居、「鏡島前川南」「鏡島大橋南」「鹿島町8西」の信号を通り過ぎる。もうここは町の中の一本道だ。「岐阜鹿島郵便局」を見つけた。今回は郵便局によく出会う。「阿賀多神社」を過ぎ「加納本町9」の信号を渡り次に見たのは「中山道加納宿」の立て看板だ。「あなたが立っている道は五街道の一つ中山道です」という書き出しで始まっている。秋葉神社を見た。この名前の神社をここへ来るまで2,3度見かけたように思うがー。少し行って広い道を左へ行くとJR岐阜駅だった。

 河渡の渡し船には乗れなかったのは残念。今日は運航日ではなかった。


今日は10,5kmの距離で少し長いかなと覚悟してきたが、意外に早く到着、疲れもそれほどきつくなかった。
今日のルートは余り変化なかった。珍しく途中で行きかう中仙道ウオークマン氏はいなかった。一人も会わなかったのは今回が初めてではないか。

 岐阜の駅近くで2時間ほど潰した。お疲れ会と勝手に称して焼き肉屋へ行ってビールを飲んだ。今日の特筆事項は、道を2度間違えたことだった。しかし両回とも大きく間違う前に正しい道へ戻った。ロスタイムも精々トータルで20分ほどだった。
 郵便局に
3回出会った。したがって今回の記念貯金の合計額は3,000円になった。


     中山道第13日目   「加納〜鵜沼」    221216

               思っていたより長い道程だった 快晴 所要時間 7時間30分 

  歩数約38,193(携帯)22,276歩(万歩計)

本日の第1ミス。ジパングクラブの切符を既に買っておきながら、東福寺駅ではICOCAで改札を通り過ぎた。(しまった!ジパングの切符で入るのだった!)と改札に引き返し訂正してもらった。この朝、JR奈良線が7分遅れたため京都で「ワイドビュウひだ号」に乗り遅れないかと心配したが走ってぎりぎり間に合った。

2のミスは、中山道を歩いている途中、新加納地区辺りで今日の道程の参考にするコピーメモを落としてしまったこと。

前回も今日もお江戸日本橋からのウオーカーに一度も会わなかった。ただ一人それらしき人に会ったが中山道踏破目的ではなく、京都の住人で「加納城跡を観に来た」人だった。

さて今日はJR岐阜駅から南の方へ駅前大通を歩き、中山道との交点を左折した。

駅前通の「きんとん」の幟が立っているお菓子やさんの前に「ここは中山道右美濃路」の石碑。この彫り文字、実は左と彫ってあるのか、右か自信がない。建っている石碑の位置から判断して右でも左でも間違ってはいないと解釈できる。工事中の白い塀の前にぽつねんと建っている「中山道加納宿脇本陣跡」の石碑は大きさといい古さの感じからまるで墓石のようである。

「加納天満宮」の鳥居を見て、黒塀の家の前にも「中山道加納宿脇本陣跡」の石碑。「皇女和宮御仮泊所跡」の石碑に続いて皇女の「歌碑」が建っている。「遠ざかる都と知れば旅衣 一夜の宿も立ちうかりけり」。                                                         しかし500km2千人おとも付きのバージンロードはどんな雰囲気であったのだろうか。私が読んだ本の一冊にはこの時の行列は5千人とも書かれている。仮に中を取って3千人として、狭かったであろうその時代の道幅で1メートル毎に3人歩いていたとしたら、この行列の最前列と最後尾の間隔は1キロメートル。食事の場所と量、宿泊場所、いろいろ考えるととても大変だったであろう。

     和宮の歌碑

加納宿は車道も走っているちょっとした町の中である。暫く行くと「中山道加納宿等分本陣跡」と書かれた石碑。その片面には「明治天皇御小休所跡」の彫り文字。少し先に行った所で、冒頭に書いた「加納城跡」を見に来たという人の話していた「加納城大手門跡」の大きな石碑に出会った。しかし残念ながら我々はこの旧跡見学を時間の関係でパスした。

「大会山専福寺」を過ぎふと足元の会所に気が付いた。「中山道御鮨街道」と鉄製の会所蓋に彫ってある。(なに?お鮨?)しかしゆっくりすし屋さんを探す余裕はない。橋の袂に見つけたのは「中山道加納宿東番所跡」の石碑。「秋葉神社」を過ぎ名鉄線「茶所駅」に出た。この字は「チャジョ」と読む。郵便局、八幡宮、細畑の一里塚の看板。ここの一里塚は小さく、しっかり形が整っていた。覚えきれないほどお寺が多い。

岐阜市蔵前というところで標識を見たら鵜沼まで13,2kmとなっていた。感覚的には4kmは歩いたと思っていたので「うわあ、未だ13km以上か」と思った。

各務ヶ原市役所 職員食堂を借りて
 昼食をとった。椅子に坐って食べる
 食事は美味しかった。


昼ごはんの場所を探している間に各務ヶ原市に入った。思いついて市役所に食堂はないかと思ったので受付で聞いてみた。外部の人間ですが食堂を使えるかどうか。快く応じてくれたので地下の食堂へ行った。360円のうどんの美味しかったこと!暖かいうどんと持参の三角おにぎりで満腹になった。

郵便局は今日3局あった。各務ヶ原のそれは本局であった。長い「なか21モール」商店街を通り抜け三柿野駅を通り過ぎると各務ヶ原駅の看板。この辺りから早くも周囲は夕方の雰囲気になってきた。鵜沼宿街道の看板は暗くて見えにくかった。暗くなって時間も遅くなったが予定の電車をパスして鰻の店「うな神(じん)」で「ひつまむし」にありついた。店は客がなく我々だけで主人とゆっくり話が出来た。主人の姓が「新(あらた)」というので屋号もこの名前にしたとのこと。帰りは外まで見送りに出てこられた。「駅へは近道の左の方から行ったほうが良い」と、道を教え見送ってくれた。結局この日は午後78分鵜沼駅発に乗った。

                       
                                                                   「うな神」のご主人を囲んで


中山道第14日目 「鵜沼〜美濃太田」 23131() 

防寒準備怠りなかったが冬にしては寒さが柔らかい日だった 

所要時間(グロス)6時間55分  歩数22,222


高山線鵜沼駅はなんだか面白そうな駅だ。駅の正面壁に大きく「自由通路・鵜沼空中歩道」という文字が貼り付けられてある。英文字も「Unuma Aerial Walkway」。

駅前のあちらこちらにはまばらに雪が残っている。「太田町2里8丁」「岐阜市へ410丁」の石碑。市指定重要文化財・武藤家住宅」前を通った頃は粉雪が散っていた。しかし寒さは殆んど感じなかった。「鵜沼宿脇本陣」の看板がかかった建物は最近建て直したのだろうまだ新しかった。「中山道鵜沼宿と芭蕉」の看板の中にはこの地と芭蕉のゆかりの3句が書かれていた。

「汲溜の水泡たつや蝉の声」
「ふく志るも喰へは喰せよきく乃酒」
「送られつ送りつ果は木曽の秋」

芭蕉句碑を見て次に向ったのは
300メートルほど離れた郵便局。記念貯金千円。

再び「うな神」の横を通り次の宿「美濃太田」に向かう。

いきなり上り坂だ。坂の途中で振り向くと家々の屋根の隙間から国宝の「犬山城」が見える。

坂を上りきると大きな池。その縁をなぞるように歩く。「故梅田吉三郎の碑」の横を通る。この辺りから舗装の道はまた上りになる。「日本ラインうぬまの森」の石碑。少し高台のためか降り積もった雪が看板や石垣に残っている。

この辺りのメルクマールは「森の本屋さん」。但しここもこの日はお休み。この辺り月曜日はお休みデーなのか。「うとう峠の一里塚跡」の簡単な木製看板を見た後で本日最初のミスをした。

ここからは団地を見ながらの舗装された上り坂であったが、登りきったところでなんだかおかしいと感じた。車の傍で洗車中の男性に中山道はこの道ですかと聞いいたが、やはり間違っていたことを知った。来た道を引き返した。先ほど通った「森の本屋さん」近くから右へ入る「うとう峠」への石畳の道が見えなかった。

さて石畳の道はたっぷり積もった雪道だった。ちょっと脇道へ入っただけで世界が真っ白になった。ここからさすが峠という感じの山道になった。新雪の中に新しい足跡が二人分マークされた。滑らぬように万全の注意で歩いた。尻餅をつけば雪が冷水になって肌に染み込んでしまう。

「中山道いこいの広場」の看板。そのまま無視して進む。しかしこの雪道は覚悟したほど長くはなかった。峠道の最後は写真に見るように下水道と言っていいほどのトンネルだった。オーソンウエルズのハリーライムが逃げ回った、名作「第3の男」を思い出していた。

短いトンネルを抜けるとそこは雪国ではなく、滔々と流れる木曽川だった。ここからは再び国道の横を歩かねばならない。不愉快な道だ。だが暫く歩くと郵便局がありまた貯金、この郵便局を出たところから「ロマンチック街道」と名付けられた木曽川の堤防道が始まる。この道は3キロ以上続く。街道入り口で少し休憩することにした。「二つめの大きな橋を越えた辺りから宿場です」と堤防を歩いていた大柄なたくましい男性が教えてくれた。堤防際に建てられた「築堤記念碑」の石碑はまだ新しい。退屈なロマンティック街道だが木曽川の雄大な流れが眼を休め退屈を忘れさせてくれる。男性に教えられた大きな橋を越えてから堤防を左に下りた。将に今日の終着予定地「太田宿」の西端だった。各家の軒先に「中山道太田宿」の街燈のついている家が多くなった。今日は9km足らずの距離なので時間は余裕があると思っていたが、やはり夕方の気配に包まれてきた。17:15分に駅に到着できれば「ワイドビュウ」に乗って乗り換え少なく帰れるのは知っていたが、この辺りでその時間にはとても駅に到着できないことがわかった。





美濃太田駅はすっかり夜に包まれプラットフォームには雪が盛り上がっていた。






中山道第15日目「美濃大田〜伏見〜御嵩」  2331(火)

今日は終日雨だった。

      所要時間 4時間40分 歩数 23,728歩


JR太田線「美濃太田駅」で降りる。駅前の感じは岐阜駅に似ていると思った。地方都市でよく見る比較的広い通りの駅前商店街には「蟹」などのオブジェが道の車道側に置かれている。「中山道太田宿・右御嵩伏見宿3里。左太田脇本陣宿3丁」」の文字のはっきり書かれた看板を通り過ぎる「神明水神公園」の標識塔が建っている。家の壁には人間の背丈より直径の大きな水車。

この家の前で記念写真。

今を去る57年前大学に入ってまだ間もない頃、岐阜出身のA君の帰省に同行して、この地方を旅行したことがある。今でもしっかりと記憶しているのは、日本ラインの船下りと、そのあとで行った「犬山城」だ。今日、日本ラインの船乗り場を橋の上から見た。同じ場所だったのかどうか定かではないが懐かしかった。小雨の中暫くたたずんで眺めていた。

さて歩を進めよう。「富士浅間神社」の前を通る。ここにこの神社。何かいわれがあるのだろうが勉強する時間が無い。「中恵土」の信号を過ぎて「中山道一里塚の跡・江戸・伏見」の石柱。 

雨は大降りにはならぬまでも間断なく降り続く。

丁度人間の背丈ほどの高さに盛り上げられた「中山道比衣一里塚跡」。「花フェスタ記念公園・東入り口」の横長看板。

また国道へ出た。

この辺りの国道は
21号線、このところ暫くは21号線と付かず離れず歩いている。
雨のしぶきで汚れてしまった道標に「みたけの森
3k」と書かれた交差点に出た。
「鬼の首塚遺跡」「関太郎首塚」と書かれている。
「鬼の首塚
(天神塚)町重文」というタイトルの大きな看板にそのいわれが丁寧に書かれていた。

ここまで来ればもう「御嵩駅」は目の前だった。















  中山道第
16日目「御嵩〜細久手〜大湫〜大井」
23330()31(木)

       所要時間第1日目7時間5分 歩数21,116歩 第2日目9時間15分 歩数32,921

     4つの難所の峠の内の先ず最初の一つ「十三峠」をクリアした。

中山道歩きは最初,草津からスタートし、後日、三条〜大津間と大津〜草津間を追補したので三条からの計算では今回が16日目になる。時系列で追わず、経路順に統一したいので京都三条大橋〜大津(瀬田唐橋)を第1日目とする。従って今回は第16日目となる。

16日目にして初めて一泊中山道ウオークになった。これからは少なくとも一泊が必要になろう。今回は細久手の「大黒屋」旅館に泊まる。

前回と違い天気は晴れ。先日雨の駅だった「御嵩駅」前のお寺「願興寺」に入る。今日は時間があると思うので、立ち寄り場所にも十分時間をかけることが出来ると思ったのだが、結果的には終盤になって少し忙しかった。願興寺近くの「中山道みたけ館」へ入って展示物を見たが、さすがにゆっくり見る時間は無かった。インターネット氏(インターネット上で私が好んでいる手記)が書いているように、中山道に関する本がおいてあったので「中山道美濃十六宿展」」と「野次喜多の旅・道中記で辿る中山道の旅展」の2冊を買った。「商家竹屋」を少し覗き郵便局を見つけたので例の中山道貯金千円。 宿場を抜けたあと国道に出る。また21号線だ。

 歩くことしばし少し細い舗装道路からいかにもそれらしき田舎道に入る。

 畑の傍に立つ石の標識「左細久手宿
8300米」「右御嶽宿5500米」になっている。「牛の鼻欠け坂」と書かれた木製看板から、まさに旧中山道らしき坂道になる。石と砂の混じった歩き難い峠道だ。藤村の言った「木曽路は山の中」を思い出す。

 今日は上り8下り
2の割合と考えている。あすはその逆の筈。

 「耳神社」の標識を過ぎると村落に入ってきた。説明板にある病気全快祈願をして報われた人々が「錐
(キリ)」を供えに来る。やや進むと石畳の坂。坂道の登りの苦しさを忘れるために謡いながら登ったという「謡坂石畳(うとうさか)」。坂を上りきったところに広重の絵のモデルになった(今は)あばら家があり、その家の門口を塞ぐかのように広重の大きな古びた絵が立てかけてある。 広重の頃はこの家の前に小川が流れていたという。今日は昇り8下り2の行程だと事前に予測していたが、歩いてみるとこの予測はほぼ当たっていた。

 この峠の頂上に和宮が休憩した「御殿場」。休憩するだけで御殿が作られたのか。坂を登って東屋まで行ってみる。
                                    広重は甚兵衛坂辺りを描いたと言われている

 さて、今日の特記事項はこのあとで出会った佐賀源一さんの履歴と現在の暮らしぶり。山中の一角に開いた空間といった広がりにサイロのようなものが見えたので「あれはなんだろう?」と興味を持った。眼の前の網の箱の中に小さな猪を見たのが持ち主の話を聞くきっかけになった。

 特攻隊の飛行士だったが復員後、バスの運転手になり、知事表彰を受けた大正14年生まれの小柄な男性。この山の中で猪を4匹捕まえ、あまごと岩魚(いわな)と鱒を人口清流を作って飼い、メタボだろうか体の一部が異常に膨れ、大きな治療袋を首から提げた犬と5匹の鴨と暮らしている。ここで40分位は楽しい道草をした。70羽居た鴨の内65羽はアライ熊や狐や狸に攫われ、鶏はすべてやられたとのこと。もっとここで話していたかったが未知の長い道を歩く身には先も急がなくてはならない。

 現在の「デルス・ウザーラ」さんと別れ、ここから鴨の巣一里塚、切られヶ洞、秋葉坂、など如何にも林の中の道といった地道を歩き、小一時間ほどで「細久手」宿に着いた。目指す旅館「大黒屋」は宿場の西の端近くにあった。

 今回は中山道を歩き出して初めての泊まり。細久手宿の「大黒屋」旅館は中山道を歩く人の殆どはその名前を知っているようだ。「大黒屋宿泊ですね」と会った人のほとんどの人は言う。夕飯の膳に出た「アマゴの塩焼き」が特別に美味しかった。
50歳を少し越えた年齢ぐらいに見える主人と、まだ50歳未満に見える奥様、それにご主人の母親で大正12年生まれのおばあちゃん「酒井房子」さん。この人の名前は何冊かの文献で見たことがある。

 古いつくりの建物、奥の階段は
90度かと思えるほど急だ。2階の私の寝室に当てられた部屋の床飾りが、大木の根っこで作られた鎧を着た武将のオブジェであったが、寝ている私を頭の上から睨みつけているようで大変恐ろしかった。寝首をかかれると明日から中山道を歩けないので、寝床から起き上がってそっと武将の向きを変えさせてもらった。

 《翌日》7時ごろ目がさめた。何故か夕べは一回も目を覚ますことなくトイレも行かず、ぐっすり熟睡した。やはりこの辺りは、わが家よりも湿気が少なく温度も低いようだ。朝食は山菜中心の軽いもの。お昼のお弁当も大きなおにぎり2個が用意されてあった。

 ご夫婦と記念撮影。房子おばあさんの見送りを受けて第2日目の峠越えに向って元気良くスタートした。

 宿場は比較的長い登り坂だった。そして村を抜けると林の中の道が待っていた。二差路の分かれ道の真ん中に立て看板「伊藤洋蘭園」。迷ったが不安を持ったまま左への道を選んだ。少し歩いたところでどうやらこの道はやはり間違っていると考え、引き返したところで折り良く見かけた庭作業中の男性に尋ねた。どちらの道も同じ所に行くとのことでその男性はこの道を薦められた。

 舗装道路が地道に変わるあたりからいよいよ登り600メートルの琵琶峠だ。熊脅しのためにリュックに取り付けた鈴がリズムの狂ったマーチで気を逸らしてくれる。この石畳の坂は、石の大きさと形状が複雑で歩き難いことこの上ない。

この日は「琵琶峠」と「十三峠」という二つの峠越え。中でも「十三峠」は「十三峠におまけが7つ」と言われる中山道の難所の一つ。この日は9時間かかったが、結果的に判ったことは十三峠は西から東への旅人には上りより下りが多いということ。こちら側からは少し楽だ。道が二手に分かれており、野道から山道に入ろうとする辺りで、繋がれていた馬の呼ぶいななきに振り返ると、馬舎から一頭首を出してこちらを見ている。確かに彼は我々に声をかけた。

途中ゴルフ場(中山道カントリークラブ)敷地傍の道を横切った時ロストボールを一個拾った。

我々にとっては大変珍しい石畳の坂道を苦労して登り、琵琶峠の頂上で記念写真。

琵琶峠を下りきると村落に入る。大湫(オオクテ)宿だ。この辺りの家々はすべて犬を飼っている様だ。多分あらい熊や、キツネ、狸など害獣に対する備えだろう。この辺りから30分ほど歩けばいよいよ十三峠に差し掛かる。「中山道2つ岩」「大湫オオクテ」の宿の1300年の大杉を越えた神社の前の空き地で昼食。昼食の途中で道を歩く東からの一人旅氏に会う。「十三峠はきついですよ」と言われたが、あとでわかったことは西から歩く人には下りが多いので楽だということだった。

峠の入り口に十三峠の小さな石の標柱。峠への途中数軒の家並みの集落に入る。そこを過ぎるといよいよ本格的な峠、本格的な坂道だ。

いくつもの「立場(たてば)」いくつかの「一里塚」、いくつもの「馬頭さん」を過ぎて、登りは休みながら進む。「三城峠」「みつじ坂」、「高札場」と次々に出てくる看板を過ぎる。と、「深萱立場」の看板を見た。「もし大井宿まで行くのが無理だと判断した時は「深萱立場」からだと駅に近いですよ。ここを外すとアクセスが無くなりますよ」と、大黒屋のご主人に聞かされていたが、もとより脇道に逃げることは頭の中にはなくそのまま先へ進む。

追分ポイントの「下街道」を過ぎ「西行公園」に出た。ここから見る「恵那山」は特別印象的だった。芭蕉句碑「西行のわらじもかかれ松の露」を見ると、坂は下りになり「大井の宿」はもう目の前だった。

今日は終日雨であったので休憩もほとんどせず、余り立ち止まる事もなく、ただ淡々と歩いた一日だった。

 

 


中仙道第17日目  「大井〜中津川」(23415日帰り)

前後のアクセスの関係で今日は日帰りにした。

 

このシリーズで始めて【こだま】を利用。車内は空いていた。1115分恵那駅から歩き出した。恵那駅は比較的新しく正面から見てシンメトリな構図の白い建物であった。

中山道へ入る道を素通りして、先ず向ったのは駅前の「中山道広重美術館」。800円の入場料と時間を惜しんで入館はせず入り口の売店で「広重の写真集」2000円を購入。そのあと郵便局へ行き千円の街道貯金をする。これで実際のスタートは1145分頃になってしまった。

歩き出して直ぐに「阿木川」にかかる大井橋を渡る。橋の袂に立てられた看板の一部には「大井橋は当時(江戸時代)阿木川に架かる唯一つの橋で、参勤交代の大名や多くの旅人が渡ったものである」とある。旅館「いち川」「大井村庄屋古屋敷」宿役人「林家」の前には説明看板と「戸長役場跡」の粗末なたて看板が立てかけてある。

脇本陣、本陣跡を通り、先ず早速本日第1回目のミスを仕出かした。本陣跡を左折すべきところを真っ直ぐ坂を上ってしまった。しかしロスは僅か。往復600m15分。この時も町を行く地元の人に確認してわかった。「史跡大井宿本陣址」と彫られた大きな新しい石碑は古めかしい建物の前に立てられていた。

寺坂、馬頭観音、紅色と白の桜が一本の木に咲き珍しくて綺麗だった菅原神社を過ぎ、関戸一里塚、根津神社を通り「甚平坂」でミニブレイク。「初蛙、広重の絵の峠かな」(鶏二)と書かれた石碑と広重の大井宿の絵の彫られた石碑。ここは旅人の足を止めさせるには格好の場所だ。広重の絵の彫られた石碑もある。

馬塚、庚申塔、広久手坂の石標識を過ぎ中津川市に入る。その後、知らぬ間に田園の中を歩いていた。「明治天皇茄子川御小休所」になった藤原家は「和宮や明治天皇が休憩された部屋、厠、表門などは当時のままに保存されています」と説明板があった。「尾州白木改番所跡」「茄子川村の高札場跡」。「明治天皇茄子川御小休所」になった藤原家は「和宮や明治天皇が休憩された部屋、厠、表門などは当時のままに保存されています」と説明板があった。「尾州白木改番所跡」「茄子川村の高札場跡」を過ぎた、とある家の玄関脇に真民さんの「念ずれば花開く」の石標識があった。

「坂本立場跡」という小さな石碑を見たあと、地元小学校の生徒の下校時間と重なった。20人ほどの小学生の列に紛れ込み、子供達と一緒に歩くことになった。3年前、琵琶湖西岸の海津大崎でやはり下校中の小学生と連れ立って何十分か歩いて楽しい経験をしたが、今回その時の事を思いだした。子供達と会った頃から雨が降ってきた。下校する子供達の足も少し速くなってきた。歩くにつれ道路の端に父兄の方々が子供を迎えに出てこられていた。最後のおじいさんと家のほうに角を曲がって行った子どもは学校までの距離が随分遠かった。

なおこの旅から自宅に帰って後、子供達の学校宛にあの日写した写真を引き伸ばして送ってあげた。皆で見てくれだろうか。

中平神明神社を過ぎ中津川の宿に入る。駒場村の高札場跡、本陣跡を過ぎると中津川資料館を見かけたが、あいにくこの日は休館日であった。

ここから先の辻を左折すると数百b先に中津川の駅舎が見えてきた。




 中山道第18日目  「中津川〜落合〜馬篭」「馬篭〜妻籠〜三留野」
                              2351516日一泊

道に覆いかぶさる枝垂れ桜

             
                   
     15日(日)「中津川〜落合〜馬篭」
                             所要時間 5時間10分  歩数 17,3537歩

恵那山とともに歩く

当初は13,14日の予定であったが雨と台風1号の予測で2日日程をずらした。お蔭でこの2日間は快晴。夏日を思わせる暑い日になった。

新幹線「ひかり」とワイドビュー「しなの」を乗り継いで中津川駅には午前1048着。
駅前の商店街を南へ300メートルほど歩いて左折。ここが中山道だ。
この地方、駅前通はどこともによく似た景色、しかしここは少しだけ道幅が広い。
左折して前方を見るとインターネット氏も言っていた通りいきなり上り坂が見える。その坂の名前は「茶屋坂」となっていた。今日の8キロはほとんど上り一辺倒と覚悟はしていた。
(ハザマ)半兵衛元矩の顕彰碑を過ぎ坂を上りきると芭蕉句碑があった。
「山路来て 何や羅遊かし 寿み連草」。誰もがよく知っている句だ。

細い山道は石道であったがここはまだ落合の石畳ではない。「尾州白木改番所跡」尾張藩の木材搬出取締りの番所だったようだ。歴史国道中山道の石碑、常夜灯を過ぎると巨大な枝垂れ桜が道を覆っていた。時期外れだったのが残念。小さな村に入り「与坂立場跡」の石製の標識、村を外れると恵那山が雄大な姿を現わす。藤棚に咲く藤の花、「落合五郎兼行之城跡」という大きな石柱。この人は木曽義仲の四天王といわれた家臣の一人であったようだ。城跡もあった。
30歳代ぐらいの若夫婦に出会う。中山道歩きではなく一定区間の散歩らしい。
国道19号線なのか国道を跨ぐ橋を通る。そのあと「落合助け合い大釜」から「落合宿」に入る。この宿も文化元年と12年に大火に会ったと掲示板に説明されていた。
落合宿本陣跡には「明治天皇落合御小休所」の石柱脇本陣跡は現在人が住んでおられる様子。
「常夜灯」「高札場跡」を過ぎて程なくお待ちかねの石畳。入り口にはゲートが作られていた。「石畳を経て馬篭へ至る」。落合川にかかる「下桁橋」からちょっとした滝が望める。写真撮影。「医王寺の枝垂桜」「TBS連続ドラマ浅見家の悲劇」の立て看板「新茶屋の一里塚」を過ぎると、あった!
「是より北、木曽路」の大きな石。
 昔はここが信濃路と木曽路の境」今は馬篭が岐阜県に編入されて実際の県境はもう少し先になっている。「信濃、美濃国境」の石柱も見える。民宿梅の家。「島崎正樹翁記念碑」(島崎藤村の父君)。「石屋坂」を上りきると「馬篭の宿」は目前だ。

「馬篭宿340m」の看板から。もう直ぐだ。しかし、今まで長い上り坂を歩いて来て追い討ちと最後の叱咤激励を促すかのように、宿の入り口へは短いが急峻な上り坂だ。
やっと馬篭宿へ着く。8キロを何時間かかったかな。
目指す今夜の宿泊所「岩茸旅館」は島崎藤村記念館の右隣にあった。荷物だけ置いて直ぐ宿場見物に宿の前の坂を登って行く。お土産やさんに南部鉄の風鈴(1200)が置いてあったので購入。若く見えるおばあさんがサービスにと小さなキーホルダーをくれる。30分以上費やして宿に帰る。 初日は終了。


 516日(月)「馬篭〜妻籠〜三留野」
      所要時間 7時間16分  歩数 19,954歩

今日も快晴。朝食の後9時に宿を経つ。少し坂を下った所にある「郵便局」に行って千円貯金。さあ第2日目のスタートだ。また少し昨日の続きのような坂が続く。村から少し坂を上ったところに恵那山が見える絶好のビュウポイントがあった。見事な風景が目の前に広がる。雄大な恵那山をバックにして記念写真。
車道から「右中山道」の標示に従って右の小道に入る。いかにも中山道といった細い感じのいい道だ。
「梨子の木坂」の石碑の後方に、熊の絵が書いてあってその下に「熊出没注意」の文字。持参の鈴をリュックに結ぶ。この辺り石畳の上り坂。少し入った所で60歳代?の一組の夫婦者に出会う。小休止した上り坂の左側に「十返舎一九の歌碑」(薄皮をむきし女と見えねども栗のこわ飯ここの名物)と読める。少し違うかな?馬篭峠をいっきに登りきる。頂上に来ると長野県と岐阜県の県境の表示板がある。馬篭峠頂上「標高801メートル」とある。
ここで一日一本のバスから降りてきた昭和5年生まれの老人に会った。ここまでバスで来て、妻籠への下り道だけ歩くのだそうだ。手には孫から預かったスキー用のストックを持っている。熊と戦うためですか?

さて、嬉しいのはここからは下り一辺倒だということだ。途中「いちこくお休み処」という建物前には巨大な枝垂れ桜。前後して歩いている8人組の男女グループをここで抜きさる。
「立場茶屋」の看板を見て「馬篭宿4,4km・妻籠宿3,9km」の標示看板。あと1時間余りの道のりだ。
「男滝・女滝」にやって来た。8人組のメンバーのリーダーは女性。「彼女はお金儲けも上手いんです」と、しんがりを歩いている男性の皮肉っぽい話。

道際の「棚田」に張られた水が美しい。「大妻籠」というところにやってきた。石碑には「中山道大妻籠右旧道・左志ん道」と書かれている。ここまで来ると妻籠宿へはあと1キロ足らず。

馬篭宿への入り口は急な昇りであったが、ここ妻籠宿はいつの間にやら宿場に入っていたという感じ。

「湯屋」というお店で、ざるそばと五平餅の昼食を摂る。「郵便局」を見つけたので例の千円貯金。この宿へは何十年前に2度ほど来ている。全体の印象としては余り変わった所がないように私には見えた。しかし、お店の人に聞いたのは「311日以降お客さんがめっぽう減った。とくに観光バスが入ってこなくなった」ということ。湯屋をでて暫くこの宿を散策。「妻籠宿本陣」「歴史資料館」「脇本陣奥谷」「明治天皇御休所」「県史跡妻籠城祉」「上久保の一里塚」は「街道の両側に築造され町内には4ヶ所あったが現在原形をとどめているのはここだけである」と説明されている。
何故ここにD51が

三留野宿に近いあたりで機関車D51が野ざらしで道の横に展示されていた。山の中を歩いてきた人間には目の前に環境に似つかわしくないものが現れては少し度肝を抜かれる。
しかし三留野宿の最寄り駅である南木曽(なぎそ)駅はもう直ぐだ。







??

中山道第19日目「三留野〜野尻〜須原〜上松」 (236162日一泊)

     61日(水)

1週間前の天気予報では本日のウオーキングルートは曇りであった。ところが実際に来て見ると雨、それも結果的に2日間とも雨は遠慮なく降り続いた。ただ今回は前回のように坂道が少なかったのがせめてもの救いであった。途中で小休止しなければならないような急な上りがほとんどなかったので助かった。

三留野駅へ着いたのは午前11時。ほとんどロスタイムなしで歩き出した。ただ目的方向と違う方角へ少し寄り道した。駅前近くの「桃介橋」を一目見たかったからだ。

「桃介橋」の名の由来は、電力王の異名を取り大同電力(今の関西電力)社長であった福沢諭吉の婿養子の福沢桃介から取られた名前。木曽川にかかるこの端は木造の吊橋である。

その後は雨に煙る信濃の山々を左手に見つつ、ただひたすら前方を見てもくもくと歩いた。明治天皇御休み処を過ぎて暫く行くと無人駅「十二兼駅」。ここでお昼にした。なおこの駅名は「じゅうにかねえき」と読む。雨避けに駅のホームに建つ駅舎は格好の場所。ダイヤは1時間に一本だ。鉄道保安員らしき人が一人作業をされている。それ以外は人っ子一人姿が見えず、雨に煙る山々が静かにこちらを眺めているだけである。

 

     突如として降り出した雨に慌てふためく人々。雨を描くことに長けていたと言われる広重の名作。

今日は雨が絶え間なく降っているので、ビデオもスチル写真も撮影の機会がどうしても少なくなる。傘をさし雨を避けてシャッターを押すのも大変な苦労である。

野尻宿で郵便局を見かけたので例によって早速千円貯金をする。

次のブレークポイントとして選んだのは「道の駅大桑」。ここで私は,また五平餅を食べた。木曽福島から野宿しながら歩いてきたという初老の男性に会った。感じとして細久手から大井の山中で会った佐賀源一さんのイメージとかぶさった。雨はまだ降り続く。小休止の後また国道19号線の不愉快な道際を歩く。須原宿に差し掛かった頃京都の清水寺に似たお寺だと聞いていた「石見寺」を彼方の崖の上に見た。

この頃雨が一段と勢いを増して降ってきた。木曽川を越えて本日の宿「民宿いとせ」を探す。少し判り難かったが雨を凌げて全くほっとした。直ぐ入浴。その後夕食。民宿にしてはまあまあの食事。今夜は早めに寝ることにした。


  6月2日(木)

今日も雨。朝食の後9時前に宿を発つ。昨日場所がわからなかったので素通りした「定勝禅寺」は木曽三大名寺の一つだということで、是非見ていらっしゃいと民宿のおかみさんに勧められた。その上ご本人の運転する車でお寺まで送ってもらった。おかみさんは訊けば昭和9年生まれということでした。須原宿の茶屋町というところで郵便局を見つけたのでまた千円貯金。この地に相応しい小さな木造の建物だ。

ここは「水舟」が有名だ。通りのいたる所で丸太をくり抜いて作った水舟が見られる。その水舟の後ろに正岡子規の句碑が立っている。「寝ぬ夜半をいかにあかさん山里は月いずるほどの空だにもなし」。この「水舟」の写真はこの宿関連の書物に必ずと言っていいほど登場する。?

須原宿の高札場の看板。「水舟の里」の大きな看板からすこし山道に入る。ちょっとした山道の金網にNTTの金属製の看板あり。「おねがい。重要電話線あり。この付近を掘削するときにはかならず下記へご連絡下さい」。山道を抜け出して少し歩いたところに「ドライブイン木曽」。  

ドライブインというほど大袈裟なものではない。ベンチがあるのが見えたのでここで小休止することにした。(私ごとであるが、ここでトヨタファイナンスから私の携帯に電話が入り「落した車のキーが見つかった」とのこと。警察署に保管中の由。よかった!)。後500mで倉本駅の看板。
また桃介橋に良く似た吊橋。

水蒸気の湯気が立ち昇って来た木曽川に面した山々。

見事な景色に雨の中のつらさも忘れがちになる。「荻原一里塚跡」の標示看板。「この一里塚の位置は京へ六十四里、江戸より七十三里です。残念ながら現存しません」と書かれている。

程なく歩くと「小野の滝」。今は中央線の鉄橋に頭を抑えられて景観が悪くなっている。

「広重、英泉の合作である中山道69次の浮世絵に書かれている上松は、この小野の滝の絵です」と説明板。浅井洌の句「ふきおろす松の嵐も音たえて あたりすずしき 小野のたきつせ」

二条の滝が密やかに落ちている小野の滝から舗装された道路をゆっくり登っていく。やっと今日の楽しみにしていた所へやって来た。入り口に「寝覚の床美術公園・県立公園寝覚めの床」と大きく書かれている。

何十年前になるだろうか。信州に住む友人夫妻に案内されて一度ここへやってきたことがある。ブルーの水の色を透して白い岩石の色が透けて見え、なんともいえぬ淡い色のコントラストが強烈に印象に残っている。

しかし今日は少し様子が違った。昨夜来の雨で水が濁っていた。以前岩伝いに行った「浦島堂」の祠へも雨に濡れた岩の表面が滑りやすいので行くことを断念した。

説明板を読む。「寝覚ノ床は木曽川の激流が花崗岩の岩盤を長い年月にわたって侵食して出来たもので、国の史跡名勝天然記念物に指定されています」。

竜宮城から帰ってきた浦島太郎が、持ち帰った玉手箱を開いたのがこの地であったとされています。

寝覚めの床を出たところにある「寿命そば越前屋」が本日お休みであったので、隣の「ラッキー」というお店でお蕎麦を食べた。

ここから本日の終着地「上松駅」まではそう遠くない。しかし今回の中山道は充分雨と付き合わされた二日間であった。
 


 中山道第20日目上松〜福島〜宮ノ越〜薮原」(23・7・9〜10・

  7月9日(土) 

風邪がまだ完全に回復していない。一昨日には、「明後日は延期した方がいいだろうか?」と思った。でも弱気もいけないので決行することにした。











前回と違って今回は快晴。雨は困るが快晴というのもこの時期ではまだ曇りの方がいい。

今回は初日が少し辛かった。

しかし2日間とも道程はほぼフラット、19号線沿いの嫌な道も少しあったが、きつい上り坂が殆どなかったので助かった。

印象的な「檜の大木」のオブジェが鎮座する上松駅。「おおさわ」という上松駅前のス‐パ‐で、同行のN君はお稲荷を、私は葡萄パンを仕込んでからスタート。

最初のチェックポイントは「木曽の桟」だったがこれは結果的には見ることが出来なかった。19号線を素直に歩いていたら見られたのだが、わざわざまわり道になる木曽川の反対側を歩いたので見ることは出来なかった。木曽の桟は対岸から見る方が良いと、なにかの本に書いてあったのにー。

橋梁工事の現場をすり抜けて舗装路を歩く。ここは国道のバイパス的に使われている道のようで時々ではあるが結構スピードを出して車が走り抜ける。昼ごはんを食べる場所を模索しながら歩くのだが、こんな道路から抜け出さない限り食事できるような場所がない。しかし、まさに背に腹は変えられず舗装道路の川へ下りる階段で腰を下ろす。なんとも表現し辛い場所であった。

しばらく行くと道の駅があった。

10号線に建つ「道の駅」から頭を雲間に隠した雄大な御嶽山が垣間見えた。

この辺りまで来れば木曽川も川幅が大分狭くなってくる。100mぐらいの川の中ほどで魚を釣っている男性の姿が見える。村の中に「一里塚の跡」の石碑を見つけた。(京へ六十七里、江戸へ七十里)と彫ってある。

木曽町に入る手前「塩渕」という信号を過ぎた。

木曽福島駅へは予定より早く着いた。もう20年になるだろうか。前述した信濃大町に住む友人夫妻とこの駅前で待ち合わせ、車にピックアップしてもらって、ここを出発点としてあちこち旅行した。その時のことを懐かしく思い出す。

宿泊する「むらち屋」は駅から数百メートルの所。入り口がくぐり戸になっている。腰をかがめて入る。今夜の夕食の予約はないので、早速待望の蕎麦屋「車屋」へ。しかし残念!売り切れ閉店。とりあえず耳にした「足湯」へ向う。もう一軒あるという蕎麦屋さんの所在を確認して先ほど歩いてきた「塩淵」交差点近くへ戻る。こうなれば少々遠くても初心貫徹。何としても蕎麦が食べたい。しかし、ここも売り切れで本日終了。仕方なく喫茶店のようなお店に入り何とか夕食を済ます。今夜はぐっすり寝れるだろうか。

710日(日)

この辺りは我がコミュニティ近辺と違い大分気温が低いのか、夜はクーラーなし、窓は締め切っていても暑くない。ぐっすり熟睡出来た。朝食をゆっくり平らげて宿の主人にシャッターを押してもらい第2日目をスタート。

宿から北へ広がる福島宿はさすが大きな宿場であった名残が多く見られる。小さな水車の横には「歩いて楽しむ町福島」「ここはウエンダです」の表示看板。古びた建物の「まつり会館」。高札場を過ぎると本陣跡。その場所に今は市の別館「木曽町木曽福島支所」が建っている。

宿を抜けると「高瀬資料館」があり、「高瀬奇応丸」の石碑。その辺りから細い道が上り坂になっており登りきった所に有名な「木曽福島の関所跡」の2メートルほどの大きな石碑。

ここは国の史跡になっている。時間があればこんな所でゆっくり見物したいが先を急ぐ。「出女に入り鉄砲」の取締りがここで厳しく行われたのだろう。経路は再び国道19号に合流。しばらく行くと「手習い天神」木曽義仲が小さい時に師匠の中原兼遠に学問を習った故事にちなんでいる。

中間点の標識があるということは耳にしていた。

意味なく心待ちにしていた

そのまま国道を進む。懐かしい交差点に出た。15年以上も前、ゴルフ仲間4人と車に乗り合わせこの交差点を右に曲がって「木曽駒高原CC」に2度ほど行ったことがある。

旅籠蕎麦「水車家」の大きな看板。お腹の虫は今食べたくないと言っている。再び中山道に相応しい街道に出た。

そして待ちわびていたものにとうとう出会うことが出来た。

「中間点」の標識だ。

「中山道中間点」京へ266km6728町江戸へ266km6728町。「ああとうとう半分歩きおおせた」。ここは少し時間を使って感慨に浸る。

宮越一里塚を過ぎた。また小さな村に道は続いていた。道端の家の屋根の軒先に直径1メートルほどのゴムプール。女の子が二人水着を着て水浴び。見ているだけで涼しい気持ちになる。


「明治天皇御膳水」の井戸。どうやら宮ノ越宿場に入ったらしい。スーパー「スズキ」に入り冷風に身をゆだねる。缶ジュースを一本買って一息に飲み干す。宮越郵便局が通りに面してあった。だが残念!。今日は日曜日だった。

「蕎麦屋さんはありませんか」

「もう少し先を左に行けば街の女性の会が運営している店がありますよ」。

そこには「ともゑ庵」という看板が架かっていた。


地元の老夫婦と60歳の義理の息子さんの3人が先客だった。ざる蕎麦を注文してこの人たちと話し込む。旅の心休まるひと時だ。歩いて次の宿、薮原に行く我々を感心した面持ちで見ている。老人が「疲れたらバスもあるよ」と親切に言ってくれた。息子さんがすかさず「歩いておられるんだからバスは要らんの」

もっとここで座り込んで話したかったがそうも行かない。写真を撮り記念の証として店を出た。

一軒しかない食べ処

「ともゑ庵」

「伝説の残る巴が淵」の掲示看板。

「蒼蒼と巴が淵は岩をかみ 黒髪愛しほととぎす啼く」

という句が添えられている。句の彫られたいくつかの石碑を通り過ぎて「木曽川源流の里」(木祖村)という大きな看板の前に来た。何日間か木曽川とは手を携えて歩いてきた。その木曽川の源流に近づいてきたようだ。(長い距離を歩いたのだなあ)という感慨とともに、木曽川との別れが迫ってきているのを寂しく思う。

細い田舎道、また国道。トンネルが見えてきた。今回2度目のトンネルだ。国道のトンネルだけに344メートルのトンネル内は車の轟音が凄まじい。後日、ビデオを見たが何故かビデオの音は控え目だ。実際は表現のしようがないほど凄まじい。

トンネルを出たところから何人もの人にすれ違う。程なくわかったことだが豊鉄バスの奈良井〜宮ノ越バスツアーの参加者達だった。

「道の駅」「こだまの森7km」「権兵衛トンネル10km」の標示看板を見て「菅(スゲ」の信号に出た。崩落防止コンクリート壁に巨大な彫り絵が貼り付けてある。幅2メートル長さは10メートルほどであろうか。

再び「木曽川源流の里」の大きな縦看板を過ぎたら薮原駅が前方に見えてきた。

実は、予定していた時間より1時間も早く着いたので、一便早い列車に乗ることが出来た。

さあ、次回は「鳥居峠」。その次は最大の難所と聞く「和田峠」だ。

厳しい峠を2つ控えて、暑さ厳しい8月はお休みにして、9月から再開することにした。



次々回からは、各宿からの鉄道アクセスが悪く連続
3泊の行程になる予定。



    中山道第21日目 

    「薮原〜奈良井〜贄川〜本山〜洗馬〜塩尻」   

                                     2396()7() 

                所要時間 初日 5時間30 歩数17,759
                      
2日目 8時間5分  歩数40764

  初日96日(火)

和宮がいない。気を付けて探すのだが何処にも居ない。中山道を歩いてこんなことは初めてだ。どこかで彼女はこちらを見ていたのだが、こちらが気付かなかったのか。和宮は鳥居峠を越えず他のルートを辿ったのだろうか。明治天皇の「御小休止処」は少なくとも2ヶ所はあった。

薮原から鳥居峠を越えて塩尻までの中山道街道沿いで、和宮関連の碑に一回もお目にかからなかった。初日は11人、二日目は1人。中山道を旅して21回目になるが一日でこれだけの旅人と出会ったのは今回が初めて。3組の夫婦、一人旅の男性3人と女性2人。単独行男性3人の内1人はオーストリアから来た若い男性であった。鳥居峠の頂上を過ぎやれやれと思った時、街道の右側に比較的新しい小屋があった。ほっとして中に入って行った。男性1人、まさに大の字で仰向けに寝そべっていた。私が入って行った気配を察して起き上がった。

I’m Sorry to disturb You」「(むにゃむにゃ)No,no
Are You also walking for Narai?」「Yes」「Where did you come from?」「Austria」「Australia?No Austria」「Where is your terminal ?」「??……OhOhKyoto…」「Sanjyo?」

OhOh YesSanjyou

このオーストリアの若者は寝起きというだけではなく、会話や、人付き合いは余り得手ではないらしい。「May I take your picture?」とカメラを向けようとしたら顔を伏せて慌てて小屋を出て行った。街道歩きで外国人と逢って話したのも今回が初めて。

   

また50歳ぐらいの一人歩きの女性2人に逢ったのも初めて。

まさに鳥居峠の頂上手前に来た時、この歩き難い下り坂を小走りに下りてきた女性。「青い小さな蛇を踏みそうになった」と顔色が変わっている。「マムシではない様だから心配ないですよ」「いや、私、蛇大嫌い」

この人も今朝奈良井宿を発ってきたという。女性で1人の中山道歩き。男性でも1人だと心細いのに。

  1日で4万歩を越えたのも初めて。奈良井から塩尻まで距離は22,2km。たが比較的平坦だったので何とか歩きおおせた。初日は峠越え、二日目はほとんど舗装の長い道のり、変化に富んだ二日間であった。

さて620分に家を出てJR薮原駅に着いたのは午前1124分。本日最初に戸惑ったことは、宿場街への入り口に通行禁止の掲示があり、ギョ!っとしたが直ぐ横に「鳥居峠⇒」の掲示看板を発見。よく見れば人工のトンネル入り口。高架の下をくぐって向こう側に出る。こんな中山道ってあるのかな。

快晴,微風。湿気が少なく絶好のウオーキング日和。初日の今日の道程は距離こそ短いが(5,3km)その殆んどは峠道。「鳥居峠」だ。

なるほど宿場を抜けきらないうちに「右鳥居峠」の標示。早速峠の入り口、上り坂だ。その侵入道入り口角に地元の60歳ぐらいの女性2人。いろいろ道すがらのことなど親切に教えてくれたあとで「熊が出ますから注意してください」。(おどかさないで…)。早速用意してきた大きな鈴をリュックに結びつける。

上り坂とはいえ大木が覆いかぶさり日蔭が多くて暑さは随分凌げる。峠道にさしかかると、直ぐに東京方面から来た単独行の男性に会う。「木祖村史跡鳥居峠」「信濃十名所鳥居峠」地道の脇に次々に石碑が現れる。ここでまた160歳がらみの男性に会う。こんな山の中で人に会うとほっとする。お互いこれから歩いて行く未知の先を、相手にいろいろ聞きたいこともあり、また小休止のチャンスでもある。坂の頂上手前あたりでひとり、下り始めのあたりでひとり単独行の女性に会った。前者は先に蛇に追われた女性として書いた人だ。既に夫婦ウオーカーとも二組に出会っている。                                        
                                               (さあ、鳥居峠だ!ここから登りに入る)

      

そして、現れたのは「熊避けの鐘」(熊も人が怖いので鐘で知らせてあげよう)と書かれている。人に会うのはウエルカムだが熊は動物園以外では会いたくない。暫くの間、(熊って本当にこんな山道に出てくることもあるのだろうか)などと考えながら、もくもくと歩いていたら、いきなり(が〜ん、が〜ん)と鐘の音。少しだけギョ!として前方を見れば本日3度目の夫婦ペアーとの出会い。埼玉から出てこられてやはり同じように京都三条大橋を目指しているとのこと。「私たちを熊と間違ったのではないでしょうね」と出来の悪いジョークを言ったのがきっかけで暫く話し込む。年齢はやはり60歳前後か。この出会いのあと少し歩いた先の山小屋で冒頭に書いたオーストリアンにあった。

この山小屋から奈良井宿はもう目の前であった。「奈良井宿近道700メートル」という素人っぽい板切れが貼り付けてあった。こんなに素朴だと逆に充分信頼できる。が、近道を行かなくっても目的地はもう目の前なのでそのまま山を下る。奈良井宿の南の入り口には「鎮神社」の赤い鳥居が印象的だ。

この宿へ来るのは今回で3度目。数年前と、20年以上前に来ている。

今夜の宿はご夫婦だけで経営されていると聞いた「江島屋」さん。奈良井宿本通りのど真ん中に位置している。荷を解く前に江島屋さんの前を素通りして30分ほどこの宿の北の方まで散策した。郵便局を見つけた。午後4時を過ぎていたが、まだ器械は止めていなかったので例の中山道記念貯金は受け付けてもらえた。

大きなきれいなお風呂だった。間口の割には奥行きが広い。この辺りのお家の特徴なのか。

私の好きなアマゴの塩焼きの付いた夕飯は美味しかった。ご飯粒だけで食事が出来る私にはご飯の美味しいということは何より嬉しいことだ。        熊追いの金 驚かせないで!


   第2日目9月7日(水)

今日も快晴。暑いと言っても我が住いと比べて暑さの内容が違う。湿気がない。夜はぐっすり眠られる。夜中に目覚めることはない。

  夫婦2人で運営されているという「江島屋」さんに宿泊した。食事が大  変美味しかった

昨夜も食事を美味しく頂いたが今朝も美味しかった。今日の道中、途中コンビニがあるとは聞いたが、万一、昼飯抜きもあるかと思いご飯はお茶碗3膳食べてしまった。記念写真のシャッターをご主人に切ってもらいさあ2日目のスタートだ。

                                                   オーストリアンが寝ていた小屋

軒並み並ぶ[漆器店]に無言で見送られて宿場の中を北へ進む。

宿場の北のはずれにJRの奈良井駅がある。

「笹良漆器会館」「天平堂」「石本漆器店」を過ぎ「23夜」の石碑と説明板を通り「道の駅きそならかわ」へちょっと立ち寄りトイレ休憩。「国重要文化財深沢家住宅」いつの間にやら「贄川宿」に入ったのだろうか。いやここは「木曽平沢」の村だ。

街中で本日ただ1人会った男性も三條大橋を目指している。中間点を過ぎいまや出会う人の行く終着地点より我々の終着点の方が近くなった。                                                                                泊めて貰った江島屋さん

「贄川郵便局」前を通ったので千円貯金。ここで案内してもらった「贄川関所」に立ち寄る。今日は22kmの長い道程なのでゆっくりする暇がない。心は焦る。遅くとも塩尻に18時までに着かなければ今日中に家に帰れない。残念だが関所には入らずに写真を写しただけで先へ進む。JR贄川の駅前に蕎麦屋さん。ああ残念。まだ腹時計は昼ではない。明治天皇の石碑。和宮はないが「明治天皇御小休所」の碑は何度かお目にかかる。暫く進むとまた国道。昨日のようにアップダウンはなくフラットな道が続くが、車の往来の激しい国道は歩き難い。「道祖神」の石碑、「一里塚」の看板。

「日出塩の青木」という看板があった。「貴人の塚の上に大檜があった。洗馬の肘松日出塩の青木 お江戸屏風の絵にござる」と書かれていた。

  国道の右手山側の高い位置に「本山宿」の立派な標示を見る。宿は静かな佇まいを見せている。

先に通り過ぎた」「贄川宿」と、ここ「本山宿」には宿泊施設が一軒もない。それなりにまた静かな雰囲気だ。「本山そばの里」の大きな立て看板。その後方には蕎麦畑が広がっている。このあたりは蕎麦の本場。

きれいに咲きそろった道端のコスモスをバックに「本山宿」の看板。「明治天皇本山行在所跡」の大きな石碑。暫く行くと道祖神、庚申さん、字が読み難い石碑が10点以上並べられている。そろそろ[洗馬の宿]だ。中山道の宿場らしくない宿場だなあ、と思っていた矢先、あった。「脇本陣跡」につづいて「本陣跡」の立て札。だが民家の塀に貼り付けてあるだけ。「邂逅(あふた)の清水入り口」というボードが電信柱に貼り付けてある

通りに面した小学校の前を通る。先ほどから道端に植えられたサルビアの赤い花が眼に焼きつく。「肘懸松」と書かれた看板。「肘懸松」とは赤松の名木であるらしい。暑い中、とにかく歩みを続ける。もくもくと歩く。昨日の峠道も厳しかったがフラットで単調な舗装道の方が精神的な疲れが大きい。

「塩尻の駅は?」と村の人に尋ねた時「あそこのぶどう園の角を右に」と聞いたのでぶどう園に立ち寄ることにした。ここまで来れば時間はほぼ読める。頑張ったおかげで時間は1時間以上余裕が出来ている筈だ。ポートランドという名のついた葡萄を試食。甘い。甘過ぎる。

相棒が一箱購入したのでサービスに2,3房頂いた。歩きながら食べる。甘い。美味しい。ただ掌がねとねとになってカメラのシャッターに触れられない。ある程度食べた所で葡萄は断念。

駅が近づいてきた。予定より1時間近く早く到着した。

初日は5,3kmの峠道。二日目は3つの宿を通り抜け22,2kmの長丁場を休憩も入れ、靴擦れの痛みを我慢し、時々痙攣の兆しにおびえながら8時間5分で踏破した。次回は中山道難所中の難所、10kmの登り坂、10kmの下り坂、休む場所もないと聞いている「和田峠」だ。ウオーミングアップのため、プール歩行で少しトレーニングをしておこう。
        


中山道第22日目 「塩尻〜下諏訪〜和田〜長久保〜芦田〜望月」

23105()8() 

所要時間 初日 塩尻〜下諏訪 6時間55 歩数31,882

2日目 下諏訪〜和田 10時間40分   歩数47,860

3日目 和田〜長久保〜芦田〜望月  8時間40
 歩数24,476

初日10月5日(水)

34日の日程は中山道を歩き始めて今回が初めて。宿場と最寄鉄道駅とのアクセスの関係でどうしてもこの行程にならざるを得なかった。

初日塩尻峠、二日目和田峠、三日目笠取峠。今回は大小合わせて3つの峠を越えることになった。しかし厳しいとは聞いていたが中でも和田峠は、悪条件が重なったことにもよるが予想していたよりきつかった。山道の厳しさもさることながら、最後の道程になった真っ暗で、歩道の無い(白線だけ)国道142号線が恐怖の2時間であった。物凄いスピードで走る大型トラックが来るたびに、ガードレールの外へ身を寄せ、背中のリュックサックを引っかけられないように注意しながら真っ黒な怪物の過ぎ去るのを待つ。やり過ごしたら足早に何歩か歩いてまたトラックを避ける。私ごとで言えば足の指の付け根が、我慢しきれないぐらいに痛む。テープで補強したいのだが治療する場所がない。


足のトラブルの原因は、履き慣れたキャラバンシューズが駄目になり、新しいシューズを履いて行ったがこの靴が合わなかったことによる。両足に靴擦れが起こり、痛みを我慢して無理をしたことから傷が広がって親指付け根が裂けて膿をもち大事に至ってしまった。

また初日は終日雨に祟られた。傘をさしカメラを操作するのは大変わずらわしい作業である。

どうしても行動そのものも制約を受けざるを得ない。













さて早朝に自宅を出発して塩尻駅に着いたのは11時前。駅前をスタートしたのは1120分。

降り出していた小雨が30分もしないうちに本格的な雨になっていた。駅構内に先日帰途に立ち寄った蕎麦屋「桔梗」がある。駅前の観光センターに入ってできるだけ多くの情報を得る。

前にも書いたが駅前の通りは何処も良く似た佇まいである。

中山道のルートに入り先ず最初のチェックポイントの大門神社の前を通る。塩尻橋、一瞬、犬小屋と見間違えた大小屋の信号、EPSONの工場を過ぎる。この通りは国道153号線らしい。程なくして塩尻宿の脇本陣跡。続いて本陣跡、塩尻中町郵便局を見つけたので例によって街道通過記念貯金千円。この辺りでは雨は本格的に降っていた。ビデを撮影、スチル写真撮影、傘をさしながらのわずらわしい作業だ。

上問屋跡、高札場跡、口止め番所跡の石碑、木曽義仲ゆかりの永福寺、高札場看板、首塚胴塚の道標を過ぎるといよいよ塩尻峠の登り坂に入る。

雨が本格的に降る中、向こうから歩いてくる4人の男性に会った。日本橋から歩いてきた中山道ウオーカーの皆さんだった。暫く立ち止まって互いにこれから歩く未知の街道について情報交換。和田峠はこの雨では歩行が危ぶまれるとの話。明日までにこの雨がやんでくれることを祈るのみ。

舗装された登り坂を上りきった辺りに道路横断用のトンネル。潜り抜けたらまた先ほどの道の続き。

登りは続く。

「高ポッチ高原」の看板。れんげとつつじの名所らしい。この辺りへ来ると雨の中、もやがかかって看板の文字も判読し辛い。皇女和宮も休息されたという茶屋本陣跡に来た。看板の横に立つ建物の中に人の影が見える。素朴な『中山道』の立て札が適当な間隔で道路際に立てられているので大変心強い。この辺りの地名はどうやら「今井」というようだ。明治天皇御小休所跡の石碑を横目に見て先に進む。「おおはし」という小さな橋を渡る。『出早口』の信号、「長地中町」の信号を過ぎる。この辺りではすれ違うすべての車がヘッドライトを点けている。周囲はもやっているのだ。「中山道下諏訪宿」の提灯には既に灯が灯されている。雨に悩まされたがどうやら下諏訪宿に辿り着いたようだ。目的の今夜の宿泊所「山王閣」は街中の坂を上りきった所にあった。到着は午後615分。すっかり日が落ちていた。

知人に紹介された山王閣はコストパフォマンス的に言えば大変嬉しい宿であった。

6時ごろには降っていた雨が、朝食の8時前にはすっかりやみ、歩き出した9時過ぎにはからりと晴れ上がっていた。これはラッキー、街道随一の難所和田峠が雨では少し危険と昨日聞いたので心配していた。

1階ロビーから晴れ上がった空のもと諏訪湖が美しい姿を見せている。

和田峠に詳しいという山王閣の吉沢さんに頂上付近の詳しいルートを教えてもらった後、さあ出発。

この下諏訪宿には、諏訪神社春宮や秋宮初め、オルゴール記念館ほか行きたいところ見たいものが多くあるのだが、今日はそんな余裕がないのが残念。ただ、殆どの中山道記に紹介されている「元治の石仏」だけは見たい。街道沿いにあると思い込んでいた石仏は、諏訪大社春宮の境内にあった。岡本太郎さんがこよなく愛したと言われるこの石仏は私が想像していたよりも大きかった。

毎寅年と申年に6年ごと開催される御柱祭りの開催場所も見たが、御柱を転がし落す木落坂の傾斜の急なのに大変驚いた。何処からか現れた70歳位の地元のおばさんが、昨年は若者が2人死んだとか、この祭りのことについて手ぶり身振りを交え詳細に話してくれた。

さて表示看板によれば和田峠まではまだ9,6kmある。もう11時を過ぎている。心は焦る。足は痛い。

国道の「御柱木落し坂」と書かれた看板の際から山の中の登りに入る。

「和田峠8,8km」の看板。先はまだまだだ。「ふかっさわ橋」という名の小さな橋を渡り、「樋橋古戦場跡」の石碑をみて地下道を潜り抜ける。「標高1100m」の青い看板。頂上は1600mと聞いていたのでここから500mの上りなのか。流石にここからは砂利道というより尖った石の道、足の踏み場もないような険しい道。昨日出逢った4人組のグループが言っていた「雨では歩行が困難」とはこの辺りのことだとわかる。場所によっては50センチほどの石道の右側は転げ落ちると30mは転落しそうな細い場所だ。それでもこんな坂道の途中に一里塚があった。

「和宮一行はこの石坂をどうして歩いたのだろう」そんな疑問がふと頭の隅をよぎる。そんな折、目の前に大きな警告看板が現れた。

『注意!熊の出没情報。5月上旬に熊の出没が目撃されました。十分に注意してください』

熊が出てきたら喰われるしかないなあ、という諦めの気持ち。

そしてやっと最初のチェックポイント「西餅屋茶屋跡」(石碑)までやってきた。『西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の五里十八丁の峠路に設けられた「立場」であった』と書かれた説明立看板が立っている。悪路はまだまだ続く。おおきな倒木が道なき道を真一文字に塞いでいる。リュックが引っ掛かって後ろ方向に引き戻される。やっと『和田峠0.8km』の標識まで登ってきた。片方の矢印は「諏訪大社下社(秋宮)まで11,1km」とある。11,1kmを歩いてきたのだ。しかしこれだけでもまだ峠の頂上には来ていない。頂上近くになんともいえぬ美しい杉木立を見た。思わずカメラを向ける。「長和町」の看板。そして第2のチェックポイント「東餅屋」まで来た。東餅屋は今閉店した所であった。「遅いじゃないですか」とお店の主人らしい人が声をかけてきた。時間に追われているこちらとしてはここで立ち止まれない。「お餅ありますよ」というセールストークが背中に聞こえてきた。申し訳ないがそのまま歩みを続ける。代わりに説明看板だけはしっかりカメラに収めてきた。

「この東餅屋では五軒の茶屋が名物の餅を売っていた。寛永年間より、一軒に一人扶持を幕府から与えられ難渋する旅人の救助にも当たっていた」という。

「つるべ落としの秋の日」と言うが、まさにその通り。この東餅屋を過ぎるのを待っていたかのように急激に日が沈み始めた。

ここからはもうカメラも写せない。ただひたすらに坂道を下るだけである。上りよりは楽であるが曲がりくねる坂道は暗くて細かい突起物などは確認できない。

しかしこの時はまだ、この先の長さと国道の恐怖は予測できていなかった。結果的に知ることになった距離よりもずっと短い距離を考えていた。痛む足が痺れたのかこのとき暫く痛さを感じなくなった。これを機にスピードアップして坂道を必死で降りた。しかしこの無理が後で大きく堪えることになるのはこの時は知る由もなかった。坂を下りきって国道142号線に出た。しかし辺りは真っ暗。この国道を右に行くべきか左なのか全くわからない。看板も暗くて見えない。

已む無く、携帯電話で今夜の宿である「本亭」に電話したが、第一自分たちの居る場所が定かではないのだから道の聞き様もない。答える方も何と言っていいか困られたことだろう。

結果的にはいい判断になったのだが、峠から降りてきたのだからとにかく上りより下りを選んで歩き出した。この時目的地までまだ2時間もあるなどとはとても考えていなかった。少なくとも1時間ぐらいの距離にいるのだろうと思っていた.

ここから恐怖の国道歩きが始まった。

真っ暗な国道142号線。

後ろから来る車を確認するよりは、前方からの車の方が視界に入りやすいので、対向車線を歩いた。最初は歩道または歩道らしきものがあったが、途中から歩道の仕切りがなくて歩道を示す白線一本のみ。何処にでも見られる白いガードフェンスと、歩道を示す白線の間は1メートルあるかないかだ。真っ黒で巨大な怪物が次から次へと猛スピードでやってくる。そのたびにリュックを引っかけられないように背中をガードフェンスの外側に出し、背を反らせてトラックをやり過ごす。轟音をたてて走るトラックと私の体との間隔は1メートルもない。最大の難所は和田峠と聞いていたがこの国道こそ最大の難所だ

足は痛む、絆創膏を張り替えたいが時間的にも場所的にもそれどころではない。

恐怖の時間が過ぎて和田宿への信号が見えても油断は出来ない。あと100mといえども何台かのトラックをやり過ごさなければならない。信号のある交差点に来た時の安堵の気持ちは表現の仕様がない。

宿に着いたのは午後8時少し過ぎであった。結果的には下諏訪駅から10時間40分かかったことになる。

三日目10月7日()

10kmの上り、10kmの下り、22,2kmの距離、歩数計47,860歩、携帯電話の歩数計はなんと53,300歩の第二日目の夜は流石にぐっすりねむれた。

今朝は快晴。昨日より1時間早い820分に宿を出る。ここ本亭は中山道の街道筋に建っている。ご主人と奥様に丁寧に見送られ、玄関を出て右方向に歩き出す。

「ここは脇本陣」の大きな立標識。そして直ぐ本陣の前を通る。「菩薩寺0,3km・八幡神社」などと書かれた標識を過ぎる。和田中学校、和田小学校も中山道に面し隣り合って建っている。小学校の方は建て替えたのだろうか中学校より新しくモダンになっている。村から外れるとユニークなバス停の建物、一里塚。

「若宮八幡神社本殿」、和田城主大井信定父子の墓と書いてある。珍しいものを見つけた。「ミミズの碑」。(この土地に住む人々の希望により祭られました)と説明ボードに書かれてあった。

「水明の里」と書かれた大きな石碑の場所に到着するまでは、舗装はされているが静かな田園の中の道を行く。江戸からの旅人に向け「中山道これより和田の宿」と書かれた大きな石碑。こういう表示を見るたびに思う。中山道を歩く人はすべてがすべてお江戸から京都を目指しているとは限りませんよ。せめて「中山道和田宿の出入り口」と書いてください。

「長久保」という文字が信号機についている。どうやら長久保宿に近づいているらしい。こじんまりしたバス停の建物を見つけたので小休止することにした。

今回の3日間は大小3つの峠を歩く。3つ目の峠「笠取峠」3,3kmの表示が現れた。寛永時代より昭和まで酒造業を営んでいた「釜鳴屋」の古い建物前を歩く。脇本陣、本陣跡、静かな街道通り、人が住んでいるのだろうかという疑惑に陥る。長久保宿は静かな街だった。

長久保宿を抜け笠取り峠へ向う途中で江戸から一人で旅する男性に会ってしばらく立ち話。齢は60歳手前辺りか。このブログのことを紹介。

『笠取り峠1,7km、和田宿8,1km』の立て看板。もう8,1km歩いてきたのか。大きな笠取り峠と書かれた石碑を過ぎると「峠の茶屋」の暖簾のかかった蕎麦屋さんを見た。少し早めだがここで昼食をとることにした。てんぷら蕎麦700円。美味しかったが中味はかき揚げ蕎麦。しかしてんぷらはかき揚げであってもてんぷらには間違いない。誰が書いたのか読み取れないが色紙が数枚壁に貼られている。

お店を出たところに交通標識あり「清里65km、佐久24km」。今夏友人夫妻と行ったあの清里に近づいているという感慨が湧き上がってきた。茶屋から道は下りになる。足の痛みはいっこうに軽くならない。次なる目標と楽しみは笠取峠の「松並木」だった。「慶長七年幕府は中山道の整備に着手…現在百本余りの老松が往時を今に伝えている」と書かれている。

ここでまた江戸から一人で歩く男性に会った。説明本を片手に「和田宿で本亭に泊まる予定」と言われたので「本亭は今夜はお休みですよ。しかし電話するとどこか紹介してくれる筈ですよ」と教えてあげた。

『従是東小諸領』の大きな石碑。道祖神石碑、松並木を出るまでにもう一人江戸から歩く男性に会った。

ほどなくして芦田宿に差し掛かった。ここには「芦田宿入り口」のたて看板が立っていた。郵便局で記念貯金。「立科町役場」の表示石,仲居の信号、芦田川という小さな川、立科ゴルフ倶楽部正門、茂田井の一里塚、石割坂という表示があったがどれがその坂だったのか。茂田井村下組高札場跡を見る、今、茂田井村の真っ只中を歩いているようだ。この村は造り酒屋が多いようで大きな杉玉を門に吊るした家が軒を連ねている。

望月宿の文字があちこちに現れるようになってきた。遂に望月宿道案内の表示に出くわした。交通標識のように大きく高い位置に「これより中山道望月宿」の文字。

大伴神社、蒟蒻細萱、脇御本陣の板が家の軒先に架かっている。老舗のお店のような佇まいの商工会館を過ぎればもうここは望月宿の真っ只中だった。昨日ほどハードではなかったが今日もまた18,3kmの道のりを8時間40分かけて歩いたことになる。

目指す宿「青木荘」は宿の奥まった所、清流のそばにあった。ロケイションは最高の場所であった。

四日目10月8日()

昨夜は痛めた足がうずいて眠れなかった。朝目が覚めてみると右足の親指付け根の甲の部分が腫れあがっていた。絆創膏のふちから血が滲み出ている。悩んだ末、相棒にも相談して今日の行程は中止することに決め、ここからバスに乗り小梅線を使って帰途に向うことにした。。



中山道第23日目 「望月〜八幡〜塩名田〜岩村田〜小田井〜追分」

23128()10() 

所要時間 初日 望月「青木荘」に宿泊

2日目 望月〜八幡〜塩名田〜岩村田 7時間00分 歩数21,644

     3,6km 2,9km  5,1km   11,6km

3日目 岩村田〜小田井〜追分    4時間30分 歩数20,062

    4,6km   5,9km      10,5km               
   



           

朝目覚めると窓の外はすっかり雪化粧だった                  いきなり瓜生峠の登り坂は雪だった

初日12月8日(木)

今回のスタートは前回108日、私の右足のトラブルのため断念せざるを得なかった望月宿からのスタートとなった。

今回の歩行は二日間で22,1kmと比較的短い距離であったが、話題は少なくなかった。

まず出会いがあった。

篠ノ井から小諸に行く快速電車の中でアメリカ人の若い女性と向い合わせの座席になった。「May I sit down here?」「Of course Please」。

小諸駅の手前上田駅でそのアメリカ女性が降りるまで、写真を撮り楽しい会話が出来た。

アメリカから二週間前に来て直ぐ英語学校で教えているとのこと。教材もカバンから出して見せてくれた。また自分自身も日本語を学び始めたと言って日本語の教材を出して見せてくれたので,ここから我々の日本語指導が始った。たちまちTeacherStudentになった。

二つ目の出会いは今回の行程の終わり近くだった。後述するように小田井宿から追分宿への中山道を間違って歩いてしまった。途中で気がついた時にはもう後には戻れない所まで来ていたのでそのまま歩き、林の中の別荘らしき建物の庭でガーデニングをされていたご夫婦に、信濃追分駅までの道筋を尋ねた。中山道だと思った道がそうでなかったこと。そして駅の位置がわからなくなってしまったこと。そのあと駅近くまで歩いて行った時、車が我々を追いかけてきて止まった。振り向くと先ほど道を教えて頂いた「大海さん(仮名)」だった。私達が歩けなかった中山道を、自分の車で案内して下さった。折角遠く京都から来たのに街道筋にあるビュウポイントを見過ごしてしまうのは残念だろうというご配慮からだった。「堀辰雄記念館」「分去の碑」などなど、中山道を歩く人なら当然必見のポイントを案内して頂いた。見知らぬ地での親切が嬉しかった。

道を三度間違った。

一度目と二度目は正しい道に軌道修正できたが、三度目は(前述)遂に正道へ戻るにはあまりにも間違った道を歩き過ぎてしまっていた。

一度目は望月宿から朝スタートして中山道への標識を見落として200mほど通り過ごしてしまってから、おかしいなと気付き、引き返して正道に戻った。

二度目は三日目の朝、宿泊した佐久平駅前のホテル「佐久平プラザ21」のフロントで、「中山道はどちらですか」と尋ね、結果的には昨日このホテルに辿り着いた時に歩いた同じ道をダブって歩く結果になり、1時間ほど時間をロスしてしまった。「中山道はどちらですか?」という尋ね方が間違いの元だった。中山道は点ではなく線である。中山道という道のどの点へ行くのかを尋ねなければならなかったのだ。

三度目は決定的なミスであった。三日目、小田井宿から追分宿へ行く道をいつの間にか県道137号線の車の往来の激しい道路を歩いていた。先程から中山道の道筋でよく見かける標識を目にしていないと感じ、畑から帰られる途中の農夫に尋ねて、我々の間違いが取り返しの付かないところまで来ていることを知った。今更正道に戻れないのでこのまま進むことにした。

もう一つのハップニング

「塩名田」の交差点を渡ろうとしたときの事だった。勢いよく走ってきた消防車から大きな音がして何か物が落ちてきた。消火用ホースの1m長の金属製のノズルであった。大声で合図したが車は行ってしまった。暫くして50歳ぐらいのご婦人に会ったので、状況を話して近くの消防署に電話しておいてほしいと頼んでおいた。

第二日目129日(金)

今日は快晴。風は少し冷たい。いろいろなハップニングもあったが、今回の中山道第二日目は、先日も宿泊した望月宿の旅館「青木荘>からのスタートになった。                         

          八幡宿本陣跡          

朝目覚め、窓から外を見ると林や道路にはうっすら雪が積もっていた。今冬初めて眼にする雪だった。そして前述のミスを犯した後、旧中山道を歩き始めた。

今日の最終目的地は約12km先の岩村田宿である。しかし先ず目指すは八幡宿。自転車屋の角を曲がり暫く宿場の中を歩いたがいきなり瓜生坂の昇り坂が待っていた。まだ足のウオーミングアップが出来ていない朝の時間なので、この急坂は少しきつかった。しかし坂道はそう長くなかったのでほっとした。「瓜生坂の百万辺念仏塔」の古い看板が雪景色をバックにくっきり浮き上がって見えた。
         岩村田宿 相生松                       灯篭づくりの標識

「望月城跡」と書かれた標識の横に望月宿の石灯篭。「遺言道祖神」その説明立看板を過ぎ視界が突然開けた。目前に現れた浅間山。雪を冠ったその雄大さに圧倒された。ここから今回の中山道行は最終目的地まで、冠雪した浅間山と共に歩いた。眼をやる度に疲れを忘れさせてくれた。

望月宿へ2,5km、八幡宿へ0,8kmの表示を過ぎ暫く行くと塩名田3,2kmの表示が表われた。

八幡宿の「中山道八幡宿本陣跡」の標識の後ろの建物は、門だけが残っているのだろうか。
つぎのビュウポイントは「八幡神社」、「高良社」。高良社とは周辺に定着した朝鮮からの渡来人の社で高麗社の意。現在国の重要文化財に指定されている。暫く先に石の門柱だけがあった。高さ2mほどの石柱の左の文字は「常泉寺」、右側には「八幡山」と書かれている。

    道端にはあちこち残雪が                浅間山                       
八幡宿の村落を通り抜けると左前方に再び雄大な浅間山が現れた。この山は何度見ても見飽きない。画家がこんな山並を目の前にすれば、何はさておいても絵筆を取りたくなるだろう。絵の心得の無い私にも暫く眺めていたい衝動に駆られる。明るく開けた田園地帯を抜けると塩名田の宿に入った。直ぐ左手に「塩名田宿本陣問屋跡」の標柱。その後ろに建つ建物は勿論本陣そのものではないようだ。宿場の中の塩名田の交差点を渡ろうとしたとき前述したハップニングが起こった。消防車がノズルを落としていったのだ。あのご婦人は消防署へ連絡されただろうか。

「重要文化財駒形神社」を過ぎる。「この地は古くから信濃牧の地と呼ばれる馬の産地であり、本殿には馬に乗った男女二体の神像が祀られている所からそれらに関係した神社だったと思われる」と説明書には書かれている。

塩名田宿を通り抜ける。道端の立て看板には「追分」の文字が現れ始めた。その前に岩村田の宿がある。見たいと思っていた「相生の松」をうっかり見落としたことに気がついて引き返す事にした。現在の松は3代目だという。

西宮神社を通り過ぎると「岩村田宿」の表示が交差点際に建っていた。やっと本日の終着である岩村田宿を通り抜け、今夜の宿泊所「佐久平プラザ21」を目指す。

第三日目1210日(土)

今朝は昨日より1時間早くホテルを出た。スタートは810分。今日は何としても信濃追分駅1430発の電車に乗りたい。これを外すと帰宅予定はカレンダーの日付が変わってからになるのだ。ところが冒頭に書いたように中山道に遠回りして入ったことになり、きっちり1時間ロスしてしまった。

県道137号をに沿って残雪の舗装道路が続く。車の通行も決して少なくない。道路わきに立つ標識「小田井宿を経て追分7,4km・中部北陸自然歩道」を横目に見て先に進む。「市文化財旧跡鵜縄沢端一里塚」には「この一里塚は慶長年間中山道開通の当初に設置されたものである」と書かれている。道端の舗装されていない土の部分には雪が残り、左前方にはすっかり冠雪した浅間山が疲れを忘れさせてくれる。暫く行くと二股の分かれ道に来た。右側の道に入る。暫く歩くと「追分6,6km」の標識。村の半鐘台(火の見櫓)が浅間山の頂上から上に突き出しているように重なって見える。御代田町に入った。「中山道小田井宿跡」の縦長の標識。小田井宿の「脇本陣跡」。この辺り標柱も周りの樹木も頭に雪帽子をすっぽりとかぶっている。続いて「中山道小田井宿本陣跡(安川家住宅」。道の左側に新しい「休憩所」が作られていたが先ほど休んだばかりなので残念だがパス。「中山道小田井宿」と書かれた木彫りの柱の上に梟が止まっている。これも木彫り。村はずれに来ると再びみたび雪をいただいた浅間山が眼前に迫る。山の姿は現われるたびに大きくなっている。ここで標識は「追分5,0km」。「追分へ4.0km」の標識を過ぎた辺りに「御代田町役場・御代田駅・国道18号線」の背の高い鉄製の交通標識。後で述べるがどうもここを左へ標識に沿って御代田駅の方へ行くのが正解であったのかも−。

              
県道137号(この辺り間違った道を歩いていた)                    何処からでも見える浅間山

「龍神の杜」という公園があったので10分休憩を取る。「ミネビア株式会社」の門前を過ぎる。「雪窓湖」の看板が交通標識のように立っている。見晴らしのいい場所に道が開けるとまたまた浅間山に会う。「会うたびに大物になる浅間山」「浅間山八景第七番草越」の縦標識。県道137号は続く。

どうもこの辺りで道を間違い始めていたのかもしれない。いずれにしてもこの日何処からか中山道を外れた道を辿っていたのだ。なんとなくおかしいと感じ、野良仕事帰りの人に道を確認した時には既に取り返しのつかないところまで歩いてきてしまっていた。

林の中の庭でガーデニングをされていたご夫婦に、道を間違えたことを話し「信濃追分駅」への道を尋ねた。目的地までもう20分ほどの地点にまで来ていた。

駅舎が見えて来たとき、後ろから走ってきた車が止まった。先ほど道を尋ねた大海さんであった。(その後は前述の通り)。

小田井宿から追分宿までの中山道は見所が多いことがわかったので、次回はぜひ御代田駅で下車して、今回歩けなかった小田井、追分間の中山道を歩きたいと思っている



中山道第24日目 「追分〜沓掛〜軽井沢〜坂本」
                        24・6・16(水)〜18(金)

所要時間 初日 小田井宿(御代田駅)から追分宿まで歩く。このルートは前回歩いたが見事に道を間違えた。今日再度この宿間の中山道を歩いた。

  1日目 御代田駅〜追分   2時間50分 歩数16579歩  
   2日目 追分〜沓掛〜軽井沢  5時間40分 歩数26162歩   
   3日目 軽井沢〜坂本     7時間56分 歩数32434


                   分去の碑      昨年冬の分去の碑(231210)


 初日516日(水)                   

今回のスタートは、前回(昨年1210)見事に道を間違えた小田井宿〜追分宿間の正しい中山道を歩くことであった。

御代田駅には151分に着いた。前回親切な大海さんに車で送って頂いた駅である。あの日はまだ雪も道端に残っていた時節であったが、5ヶ月の間、寒さの通り過ぎるのを我慢して待った。そして今日、このあたりもすっかり春の気配であった。

御代田駅のプラットホームに立看板有り「標高820,43m」とある。今回歩く碓氷峠は標高1200mと聞いており今回のルートが中山道でも最も標高が高く、かつ、もっとも北にある。ここから400m近く登ることになるんだなあと思いながらこの駅看板を見ていた。

今夜泊まる追分宿まではゆっくり歩いても2時間もあれば充分だ。ゆったりした気分で歩き出すと直ぐに郵便局があった。久し振りの中山道貯金千円也。

直ぐ目の前に「御代田町交通記念館」と書かれて蒸気機関車「D51-787」が展示されてある。

前回間違えた追分宿への中山道を今度は間違えないように歩く。道は追分宿までゆったりした上り坂であった。それにしても前回は何処でどう間違えたのだろう。わかっていることは一度御代田駅まで来て居れば良かったと言うことだ。

昨年12月、まだ雪の残るこの道を大海さんに車で案内して頂いた。あのときの枝垂れ桜の大樹を左に見つつ緩やかな上り坂を歩く。確かにこの道を逆に車で降りてきた。「千ヶ滝湯川用水温水路」を通り過ぎる。道路際に残雪を見たあの頃と違い今日は八重桜が満開だ。緩いのぼり道の両側には軽井沢らしい建物が並ぶ。「平岡篤頼文庫」と書かれた道標を過ぎる。あとで調べればこの人は大阪市出身の仏文学者。「森羅亭万象歌碑」に隣接して中山道のこのルートに必ず登場する「分去(わかされ)れの碑」。前回は雪が残っていたが今この


辺りは桜の季節。ここは中山道と北国街道の分岐点だ。
 (堀辰雄記念館.右は昨年12月に撮影したもの)
 大きな櫓の上に「追分宿」の看板。ここから堀辰雄文学記念館までは中山道らしい歴史を感じさせてくれる道だが、今日は生憎道路工事で愉快な道ではない。「追分公民館」「高札場」「明治天皇追分行在所」に続き、大きな敷地のお宿「油屋」が道路の左側にある。ここから直ぐの道路右側にあるのが「掘辰雄文学記念館」。残念ながら閉館時間を過ぎていたので門構えを見るだけだった。しばらく先に行くと「浅間神社」。その境内に芭蕉句碑があった。「吹き飛ばす石も浅間の野分けかな」。「追分公園」を過ぎ「標高1003m」の標識を見る。下部には英語で「Above Sea Level」と書かれている。今夜の宿泊所である「あさぎり荘・150m」の看板を見た。ところが200m歩いても見当たらない。園児を迎えに行ったお母さんらしき人に尋ねてやっとわかった。先ほど見た看板の意味は、どうやら「曲がり角までが150m」の意味らしい。

こざっぱりした清潔感のある民宿であった。ただこの建物の立地では、我々のような中山道を歩く人間か鉄道や山林の保全関係者以外にはどんな人が泊まるのだろうかと余計なことを考える。この日は距離も歩行時間も少なく殆んど疲労感も無くゆったりした夜を送り明日に備えた。

    第二日目517日(木)                   
                            

朝、民宿「あさぎり」前で記念撮影。
穏やかでいかにも中山道といった風情の道を歩く。「借宿」という地を過ぎると「女街道入口」の標識。「入り鉄砲に出女」が厳重に取り締まられていた時代に、表道を避けて利用した裏道らしい。「馬頭観音」の大きな石柱、「ゆうすげ温泉」の広告看板、「古宿公民館」の建物、道端に「中山道沓掛宿」の石柱。ここで再び記念写真。「長倉神社」では神前結婚式でもあったのだろうか、花嫁さんの姿が垣間見える。「軽井沢町役場」を過ぎると、また「馬頭観音」の古い石柱。「軽井沢中学校」を過ぎ「市村記念館」の先で軽井沢駅に通じる国道18号線と、左に進む「旧軽井沢方面」へのやや細い道への分岐に差し掛かる。今夜の宿は右の国道18号の方角だが中山道は左。軽井沢らしき建物が現れてきた。軽井沢の町へ入る少し手前の公園で「貸し自転車500円」の看板を見つけたので、借りるべく交渉したが、500円は駐車料で
あって貸し自転車は1000円だという。


        
  (万平ホテル
   (天皇ご夫妻の出会いの時から今日までの
    写真を見せてもらった。土屋写真店)


 
                               こ(この写真は何度も見たような気がする)                             (軽井沢銀座・ここが中山道だったとは…

こちらが看板の解釈を間違ったのかもしれないが、釈然としないのでキャンセルしてそのまま歩いて先へ進む。このキャンセルが結果的には実に幸運であったことをこの時点では知るすべも無かった。腹が減って来た。お昼はとっくに過ぎている。「武田そば風林茶家」という蕎麦屋さんを見つけたので勇んで入る。この地へ来て蕎麦を食べない手はないだろう。私はいつものように冷たいおろし蕎麦を注文した。ここから今夜の宿「APAホテル」までは30分の距離。着いたのは午後3時少し前であった。チェックインを済ませ荷物を部屋において外に出れば、ホテルと隣接するように貸し自転車屋さん。「APAホテル宿泊者は終日100円」と書いてある。ここで借りると返却するのも楽だ。先程のキャンセルは実に幸運だったことがこの時わかった。

ここから中山道を歩いて以来始めての楽しい3時間がスタートした。

颯爽と自転車に跨って軽井沢の町を遊覧、と自分では思っているが、周囲から見ればなんと汚い年寄りが危なげに自転車に乗っている、としか見えないだろう。

軽井沢銀座に向い、「コーユ倶楽部軽井沢サロン」「諏訪神社」「御宿つるや」「茜屋珈琲店」「土屋写真店」、少し通りを逸れると今の天皇が美智子妃殿下を知り染めたテニスコート。そして「万平ホテル」でお茶にした。先程入った土屋写真展に飾ってあった数多くの天皇ご夫妻の写真は、お二人の一生を綴った写真とも言えるほど充実していた。ご結婚以来半世紀以上のアルバムともいえるお二人の姿を見ることが出来た。聞くところによると天皇ご夫妻は、金婚式を過ぎた現在もなおこのコートに来られプレーを楽しんでおられるとのこと。自転車回遊の最後に行ったのはかって私が務めていた会社の寮、最近では利用者が少なくて少し寂れている風に見える。

今日は疲れも吹っ飛び楽しい一日だった。
 第三日目518日(金)           
                        碓氷峠入口                     峠の茶屋みすずや
さあ、今日は中山道では多分最後になる峠「碓氷峠」越えだ。和田峠の苦労を思い出す。あの真っ暗闇の中で、轟音を轟かせて目の前を突っ走る20頓クラスのトラックを避けて歩いた恐ろしい経験が頭を過ぎる。

しかしこの碓氷峠は、山の中の地道のいかにも峠らしい道だ。東から来る人には厳しいが、西から東へ向う旅人には少しやさしいと聞いていた。それでも11キロの山道の3分の一は登り道だ。

下りは大き目の石がごろごろする細い下り傾斜。東からの人には確かに厳しい道だ。しかも7kmほどのだらだら登り。足元が不安定で歩き難いだろう。一年以上前に街道ですれ違った東京から歩いてきた人が「和田峠よりも碓氷峠の方が私にはきつかった」と、言っておられたがその通りだろうと思った。「峠の茶屋13,1km・碓氷峠(県境)2,9km」の標識の横には「野生動物(クマ)生息地域」の標識。この標識は峠道のいたるところでお目にかかる。小さな橋を越えると「見晴台」が近づいてきた。あと1,3kmだ。この見晴台辺りが長野県と群馬県の県境になっている。ここでお昼の休憩。見晴台の広場には30名ほどの人。こんなに大勢の人が中山道を歩いていたのかと驚いたが、あとでわかったことだが、皆さんは車でこの広場に来られた人ばかりだった。この峠の頂上までの車道が別にあったのだ。「力餅そば・みすずや」で、温かいおろし蕎麦と力餅を食べる。おろし蕎麦を注文するなら冷たい蕎麦にするべきだった。暖かいおろし蕎麦は私には美味くなかった。これは私のミス。ただしお餅は美味しかった。

         
             

この辺りから「安政遠足」のポスターや看板がやたら目に付く。5日前の日曜日に、この峠頂上をゴール地点にした「マラソン大会」があったという。書物に出てくる碓氷峠頂上の「熊野神社」には先を急ぐので外からのお参りで済ませた。さて、あとは数キロの下り道だ。「思婦石(おもふいし)」の屋根型看板には「ありし代にかへりみしてふ碓氷山 今も恋しき吾妻路のそら」    

さて、あとはいかにもここが中山道ですと言うに相応しい細くて歩き辛い山道。屋根型看板には「長坂道:中山道をしのぶ古い道である」と書かれてあった。途中、道を遮るように水の流れる澤に出会う。同僚が足を滑らせて水に片足を踏み入れてしまった。濡れた石は滑りやすいので要注意。少し汚れた屋根型看板に「陣場が原」と書かれ、「太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、戦国時代武田方と上杉方の碓氷峠合戦記がある云々」の文字が読める。こんな厳しい山の中で戦わなくてもいいのにと思うのは、太平のおとし子の寝言か。しばらく下ると道の右手の小高い所にバスの残骸が置いてある。実はここからしばらく下りた所にも乗用車の残骸があった。この2台はどうしてここまで来られたのだろう。ここで組み立てられて朽ち果ててし

まったのだろうか?まさか!
   

この辺り屋根型看板が多く見られる。まごめ坂を説明する「入道くぼ」。明治時代、見回り方屯所があったという「栗が原」。「一里塚」の看板。「北向馬頭観世音」「南向馬頭観世音」さらに天正時代敵を防ぐため、故意に道を狭めたと言われる「掘り切り」の看板。「碓氷坂の関所跡」屋根型看板などを、次々に見ているうちに足もとがお留守にならないように注意。ただしこの坂を登る人には立ち止まって小休止する格好のきっかけになるだろう。「坂本宿2,5km 熊野神社6,4km」の標識を見る。(これだけ歩いても、坂本まではまだ2,5kmもあるのか)と言うのがこの時の正直な気持ち。「四軒茶屋跡」「刎石茶屋跡」のあと「弘法の井戸」に差し掛かる。弘法大師の指示通りここを掘れば水が湧き出てきたという。「風穴」の屋根型看板を過ぎれば、またまた「馬頭観音」の石柱。「覗」「刎石坂」「柱状節理」「堂峰番所」と次々に表われる屋根型看板。その間に挟まって「安政遠足:ゴールへ7,5km」「侍マラソン」の標識。こんな上り一辺倒の坂道を二里近くも走ったの?調べてみると遠足は(とおあし)と読み、毎年5月の第2日曜日に仮装したランナーが参加するという「とお足」大会のようだ。「中部北陸自然歩道」の縦長標識がこの峠道の終点であった。

「中山道坂本宿」の大きな縦長標識で小休止。あとは横川の駅へ向って歩くだけだ。

「俵屋」「つたや」「米屋」などの文字が入口に貼り付けてある家々、「松井田町坂本」の信号を過ぎれば「みよがや脇本陣」「佐藤本陣跡」さらに「坂本小学校発祥の地」の石柱、この坂本宿は静かな佇まいの田舎町といった感じ。横川駅への舗装された道路に入ると右前方に不思議な形をした山が真っ先に眼に入った。あとで知ったが鉄道唱歌の第4集の17に、この山の姿を読んだと思われる一節がある。 

              

『鉾か剣か鋸か、獅子か猛虎か荒鷲か、虚空に立てる岩のさま、石門たかく雲をつく』。

高い山とはいえないが奇妙な形のその山を上手く言い表していると思う。その姿をビデオには収めたが残念ながら写真に撮るのを忘れた。「薬師坂」と彫られた石柱を過ぎるといよいよ横川駅が近づいてきた。「アプトの道」と書かれた矢印標識、「碓氷関所跡」「招魂碑」「峠路探訪ウオーキングトレイル・アプトの道」の大きな標識。私の年代以上の人のほとんどは、このアプト式鉄道のことをよく知っている。駅前に機関車などが展示されていたが今日は時間が無いので次回にゆっくり見学することにした。

駅に到着後真っ先に探したのは楽しみにしていた「釜飯弁当」。しかし「先程売リ切れました」とすげない売店のおばさんの声。

今日はこの駅から帰路に着くので、列車の発車時間が気掛かりであったが、予定時間には半時間以上の余裕があったので、結果的には一台早い電車に乗ることが出来た。

ところで横川駅で逃した『釜飯』は、高崎からの特急列車の車内販売で買うことが出来たのでご機嫌な列車内での夕飯となった。

次回は坂本宿から高崎宿の予定。



            
 中山道第25日目 「坂本〜松井田〜安中〜高崎」24614()16() 
所要時間 初日 午後45分坂本駅到着。直ちに駅前の「東京屋旅館」に荷物を解き隣接する「鉄道文化村」に入る。

   1日目 坂本駅16:05到着。 この日は鉄道文化村見学のみ。              
2日目 坂本〜松井田〜安中 8時間50
分 歩数31639 歩    
3日目 安中〜板鼻〜高崎  6時間10分 歩数23400





初日614日(木)

今回は7時間半の鉄道を乗り継ぎ、前回泊まった「APAホテル」横の軽井沢駅バス停からバスに乗り次ぎ、午後4時過ぎ横川駅に到着。50年ほど前ならバスに乗らずアプト式鉄道で横川まで行くことが出来たのであろうが、今はこの間はバスが運行している。

宿舎「東京屋」は駅の直ぐ近くであったので、そのまま直行してリュックだけ置きその足でとってかえして「鉄道文化村」に入った。(500円也)。内木戸のトロッコ列車に乗り場内一周する(400円也)。今日はこのあ
旅館に入り寝るだけ。

新幹線を使って東京廻りで行っても初日は歩く時間がないので、それなら時間がかかっても交通費を絞って一日がかりでスタート地点まで行こうとい算 段だった。

第二日目515日(金)
朝、旅館「東京屋」前で記念撮影。

旅館の直ぐ北側(と思う)を中山道が通っている。東京屋のご夫妻に見送られて先ずは松井田宿方向に出発
明日は少し雲行きが怪しそうだが今日は晴天。

先ず『やのざわ橋』という町中の小さな橋を渡る。直ぐ右に見えたのは「おぎのや」の看板。釜飯の「おぎのや」。此処が本店だったのか。ロケイションはJR横川駅の真前。

踏切を渡り小さな川と畑を見下ろす。少し先に「百合若大臣の足痕石」。説明板の一部に「……後足をふんがいたのがこの石…」と書いてある。「ふんがいた」の意味はまたのちほど調べてみるつもり。「おやまざわそくどうきょう」を越え「安中市立臼井小学校」前に差し掛かる。「うすい」の文字が「臼井」となっているのに歴史の道程を感じる。

「茶屋本陣お西・お東」を通りどんどん歩き片側にガードレールのある坂道を登りだした時だった。何処から良く通る声が飛んできた。

「中山道を歩いておられるなら其処は違いますよ」。右側の民家から70歳がらみの女性が出てきて「ここは皆さんよく間違われます」と言って、もと来た方を指差し「あのガードレールの隙間を行って下さい」。写真でもわかるように、こんなガードレールの隙間から左折するなどと言う発想は、多分10人居ても1人も判らないと思う。此処は帰宅後安中市役所に連絡して置いてあげよう。

ついでに言うと、今回は決定的な間違いを二人の男女から指摘され大いに助かった。もしこの二人の助言がなかったら取り返しのつかないロスを仕出かしていたと思う。山に囲まれた村落に続く道を行く

「西松井田駅前」の信号に差しかかる前に「松井田城址」の標識看板を見る。(北条流の典型的な中世の山城として名高い)と説明されている。

新堀の信号を過ぎるとどうやら松井田宿に入ったようだ。

「松井田町商工会館」「郵便局」では1,000円貯金。総額はもう3万円を超えた。しばらく行くと先程教えてもらった「みなとや」が道から少し入りこんだ所にあった。無料休憩所と書かれおり、昼の定食500円。地元の人達も何人か食べにきている。お腹も一杯疲れも癒され、いざ出発した途端また郵便局があった。無い時は探し回ってもなかなかないものだが,あるとなれば続くものだ。また1,000円貯金をする。

「広重の中山道69次松井田のモデルの地」と木製の屋根型標識に書かれた文字が剥げて読みずらい。「西南の役碑」のこれまた読みずらい標識。

再び三度国道に出た。国道に沿って左下にそれらしき道が併行に走っている。中山道の旧道に違いないと目星をつけ階段があったので降りる。しばらく行き山道に差し掛かる手前で田畑仕事をしていた男性にはるか遠く後方から声をかけられた。

「中山道は真っ直ぐ行っちゃあだめですよ」

今日二度目の福の神の声。おかげで間違いを犯さずに済んだ。福の神に会ってしばらく歩くと東から西に向うご夫婦にお会いした。思えば此処しばらく東から西に中山道を歩く人に会っていなかったことに気付く。ご夫婦で五街道を踏破中で中山道が最後の街道だとのこと。横浜の住人で今のところは日帰りで歩かれているとのこと。

「磯貝雲峰旧宅跡」の標識も縦長屋根型でこれも字がかすれている。「村社日枝神社」を通る。「安中宿5,7km」「安中市立第2中学校」はグランドが広い。また見つけた。「安中原市郵便局」貯金貧乏をしてしまいそうだ。道中記で何度も呼んだ「安中原市天然記念物」の杉並木に差し掛かる。もともと70本ぐらいあったようだが今は十数本か。「石挽きそばうどん・いちよし」の縦看板。下校時になったのか学生さんが突如大勢姿を見せる。近くにあったのは「群馬県立安中総合学園高等学校」。

ここからしばらく歩くと「新島襄旧宅」の道しるべ。同志社大学の創始者新島襄の生まれは東京だが両親はこの地で住まわれたとのこと。188240歳の時、教え子を伴って中山道を歩きこの地までこられた。46歳の若さで世を去った新島襄は、旧宅を訪れてから6年後に逝かれた事になる。

古びた蔵、「サカウエ薬局」と看板の出ている古い家、今夜の宿「湯沢館」まではもう直ぐだ。長い橋を渡った所に佇む旅館にリュックを置いて車で500mほど戻り和風レストラン「もみじ」まで送ってもらう。実は今夜は夕食無しの泊まりだったのだ。

第三日目616日(土)

覚悟していたが台風4号の余波で今日は朝から雨。幸い風は今のところほとんどない。長い中山道歩きだ。雨もあれば雪もある。今日は昨日の約半分、10kmの道のりだ。

湯沢館は一回り齢の離れた姉妹で切り回しておられるようだ。暖かいおもてなしを受け、リュックサックの濡れるのを防ぐ為ビニール袋で覆いを作って頂いた。

雨の中、板鼻宿に向う。昨日道を逸れた中山道へ先ず戻る。宿場の外れらしき所を過ぎて国道に合流。どうやら今日は国道とつかず離れずの道中になるようだ。下野尻の信号を過ぎる。雨は降り続いているが幸い土砂降りとまではいかない。右手に「安中駅」が見えたので渡り難い横断歩道を小走りに渡る。念のため駅員さんに中山道の道筋を聞く。「左手が旧の国道です」といわれた道を進むと橋に差し掛かった。「一級河川碓氷川」と書かれている。どうやらこの川は宿屋の前を流れていた川の下流か。橋を渡りきったところにあざやかな「右中山道」の標識。こういう風に書いておいてくれればまったく安心。曲がり角の信号には「鷹之巣橋東」。

もう板鼻宿に入ったようだ。「板鼻宿本陣跡」の標識。本陣跡の敷地には「板鼻公民館」の建物が建っている。「横面には「皇女和宮宿泊の書院」という文字も読める。「山岡鉄舟書扁額」という文字も。「板鼻郵便局」を見つけたが残念、今日は土曜日だった。しかしATMは生きていたので貯金し、自分の手で通帳に「板鼻郵便局」と書き込んだ。

「高崎だるまあります」という大きな幟が二本。そうだ、此処では全国のだるまの70%を作っていると聞いた。「生そばエビスヤ」の看板を左手に過ぎれば再び国道に出る。この辺りで高崎宿にはあと5,6kmだ。「橋供養」と彫られた人の背よりも大きな石柱。この辺りの標識は木造、石造含めて文字が読み取り難い。古さの象徴か。「碓氷峠鉄道施設・世界遺産へ」の大きな看板が国道沿いに。これは多分デモンストレイション看板だろう。 「八幡八幡宮」の鳥居を左手に見て国道をそのまま進む。国道に面した「大門屋」の前に人間の背より少し高い石造りの達磨の顔。諏訪大社で見た「元治の石仏」を思い出した。

「上豊岡町」の信号で国道18号と別れ左の旧道に入る。

「県指定史跡・上豊岡の茶屋本陣」の標識が眼に飛び込んでくる。親切丁寧な地元のボランティア女性の説明を受けて此処でたっぷり30分間の休憩を取らせてもらった。この建物は代々所有してきた飯野家から平成9年に市が買い取って一般公開しているという。此処で出前外注して食事も出来ることはあとになって知った。

この建物の斜め向いに「だるま工房松本商店」。少し行けば「高崎市立豊岡中学校」。「達磨製造販売DARUMA」と壁に書かれた文字も見える。雨は強くはないが間断なく降り続く。左手に「中国料理四川」の看板を見たので迷うことなくここでお昼をとることにした。

此処で高崎宿まであと約1,5km。雨はそれほど苦にならないがカメラを濡らさぬようガードするのに一苦労する。どうしても雨の日はシャッターを押す回数が少なくなりがちだ。

「本町一丁目」と書かれた交差点辺りからどうやら中山道を踏み外したようだ。この近くに縦長の道路標識があって「高崎宿⇔中山道」と読めるが、矢印の方向が道路と併行になっていないのでどちらの道が正解なのか判断できない。結果的にこの道標を読み取れなかったのが原因で今日の終着点である高崎駅まで回り道をしたようだ。「覚法寺」「高崎市立中央図書館」前を通り雨の高崎駅にそれでも予定より早く到達した

此処まで来ると中山道というイメージとは程遠い。都会のど真ん中に居る感じ。

今回は、実質二日間延べ歩行時間15時間、55039歩であった。

日本橋まで残り100kmを割った。もう直ぐだという感覚よりも、もう少ししか歩けない、一歩一歩を大切に、という思いのほうが強い。

中山道第26日目 「めがね橋・アプトの廃線」と

    「高崎〜倉賀野〜新町〜本庄」「本庄〜深谷」

                         24913()15() 

所要時間 初日 午後45分坂本駅到着。直ちに駅前の構内タクシーで「めがね橋」に向う めがね橋からの帰途約4kmはアプトの廃線跡を横川駅
まで歩く。
                                                                                                         

1日目 坂本駅16:05到着。 この日は「めがね橋」「アプトの道廃線跡」  

2日目 高崎〜倉賀野〜新町〜本庄  8時間50分 歩数42286 歩   

3日目 本庄〜深谷         6時間5分  歩数24053

    

2年半かけて手抜き(足抜き?)無しで歩いてきた400km余。目的の日本橋までの残りは約100kmほどだろうか。

これから先は、国道をも交えてほとんど市街地になるようだ。きびしい峠の登り下りも苦しかったが、車の行き交う舗装道路のほうが変化に乏しく、むしろよりいっそう疲れを感じるだろう。

さて今回、初日は前回(614)と全く同じ時間、同じルートで913()午後45分に軽井沢駅からバスに乗り継いでJR横川駅に到着。

駅前の釜飯販売店でそばを食べていたタクシー運転手の食べ終わるのを待って、直ぐ「めがね橋」に向う。この橋は正式には「碓氷第3橋梁」と言い、4連アーチのレンガ作りで、全長91m、高さ31メートル、使用されているレンガは約200万個という。横川駅の方からアプトの廃線跡を登ってきた人は、この橋の上で「めがね橋って何処?」と訊く人もいるという。橋へ登る袂の坂道は急だった。こんな山の中にかかわらず多くの見物客の姿があった。昭和38年頃まではこの橋の上を蒸気機関車が走っていたという。

帰途は徒歩で先程タクシーを拾った横川駅までの4kmを、5つのトンネルをくぐってアプトの鉄道廃線跡を歩いて下る。廃線跡に興味を持っているので御機嫌だった。ここは
宝塚から武田尾までの廃線跡と違って、来客ウエルカムの受け入れ姿勢が感じられ、廃線跡の線路道も舗装されて歩きやすい。レンガづくりの旧丸山変電所前を通り過ぎ
1時間ほどかかって横川駅に到着する頃には辺りはすっかり日が落ちていた。タクシー運転手が熱心に勧めてくれた「峠の湯」には、残念ながら行く時間が無かった。

今回の歩行ルートではなかったこの日の「めがね橋」と「アプトの廃線跡」と、あとで述べる深谷宿まで残り5kmほどの茶店「まるや」さんでの休憩時間が、今回の中山道歩きではもっとも印象に残った。

この日は横川駅から30分先の高崎までJRに乗り高崎で一泊。夕飯は横川駅前で買って持ち歩いていた「峠の釜飯」で、アプト廃線跡の途中で食べた。何度食べても中味はたっぷり、ご機嫌な弁当だ。

2日目914日(金)

昨夜の宿は、飲食店が軒を連ねる小さなビルで、3階から上がホテルになっていた。

高崎の町を国道17号線とほぼ平行して北にまっすぐ歩き上信電鉄の踏み切りを越える。

高崎宿から倉賀野宿までは、約6kmほど、これから東京日本橋までの中山道は、車の行きかうこのような市中の舗装された道路が続くのだろう。この辺りは中山道の案内標識が次々に表われ旅行者には優しい。標識を見ると正しい道を歩いていることが確認できてほっとする。

ここまで歩いてきた道すがらにおいても、しばらく標識にお目にかからない時に、道を間違っていることが何度かあった。   「新後閑町(シゴカマチ)」の信号を越える。

「たかべん・高崎弁当株式会社」と3,4階建ての低くて長いビルの屋上の横断的に書かれた会社の前を過ぎる。「真っ赤なだるまさん」が弁当を食べているマークが面白い。

「倉賀野宿1,3km」の縦標識の前を過ぎる。「七佛薬師如来・安楽寺」に差し掛かる。ここで休憩ではないが寸時立ち寄って写真を撮る。「倉賀野神社」の案内矢印を電柱に見たが、少し距離がありそうなのと、先程から空腹感が強くなってきているのでそのまま真っ直ぐ歩くことにした。

さて、多分倉賀野宿に入ったのだろう。

倉賀野郵便局が通りに面して建っていた。早速、例により1,000円貯金。ここで休憩も兼ねる。よほど疲れた顔をしていたのだろうか、職員の方から(お〜いお茶)のボトルを頂いた。街道沿いの郵便局に何十回も立ち寄ってきたが、お茶のサービスを受けたのは今回が初めて。勿論渇いた喉には冷たいお茶は大変ありがたかった。

「上町(カミチョウ)」の信号を見る。「中町」「下町」の信号もあった。当然読み方は「ナカチョウ」「シモチョウ」。しばらくするとV字に分かれた追分に出る。「従是右江戸道左日光道」と人の背丈ほどの高さの石柱に彫りこまれている。説明看板には「中山道は倉賀野宿東、下の木戸を出ると日光例幣使街道と分かれる(以下略)」と読める。この分かれ道には道しるべの他に、常夜灯と閻魔道がある。日光例幣使街道はここから始まるということだ。

「新柳瀬橋北」の信号、「左玉村、右藤岡L」「岩鼻」の信号を次々に過ぎると、先ほど立ち寄った郵便局員さんに聞いた蕎麦屋さん「梅田屋」が現れた。暖簾に木造の蕎麦屋さんをイメージしていたが、真っ白のモルタリ貼りの建物、中に入ると大勢のお客さん、こんなお店は大抵外れが無い。好物の「おろし蕎麦」を注文。期待通り頭の芯にくるほどの辛み大根の辛さ。蕎麦はご機嫌だったが帰り際に聞いた「200メートルほど先の烏川の橋を越えれば埼玉県ですよ」は、どう考えても正しくない。埼玉県入りはずっと先の橋を越え
てからだった。

国道17号に合流すると「本庄10km 熊谷31km 東京98km」の標識が目に入った。最終目的地までもう100kmを切ったのだ。「藤岡市立石」の標識のあとで「高崎市」の標識、しばらく行くと「藤岡市立石東」の標識。高崎市の一部が立石市の中にこの辺りで食い込んでいるのだろうか。しばらくは国道17号を行く。「新町宿」に入ったようだ。「新町郵便局」が通りにあった。今回は郵便局によく出会う。

この辺りで次の本庄宿までは7km余。ゆっくり歩いても2時間の距離だ。

神流川に架かる長い橋に差し掛かる。天正10年信長が本能寺で倒れた時、滝川一蓋と言う人があだ討ちのため京に向う途中、北条氏にここで討ち取られたと言う古事を書き記した説明板と縦長の大きな石碑がある。

新町宿では道を間違った。200mほど戻って正道に返る。「かんなかわはし」と袂に書かれた橋を渡る。「金窪之郷 八幡神社」で10分間の小休止。其処から先にK’s電気のお店があったので手洗いを借りに入る。冷房の効いた建物に入るとすっとするが、外に出るのがいやになる。「中山道新町宿」と彫られた黒っぽい石柱が道路際にあった。街道の説明本にあった神社の前には狛犬(獅子?)の横に「本庄新八景 本庄まつりと金讃神社」の石柱。境内には樹齢350年の楠。

本庄市中央3丁目の信号を過ぎ「本庄駅入口」の信号を右折して目の前に迫ってきた本庄駅には、もう灯りがともっていた。時計は午後552分を指していた。

今夜の宿泊「埼玉グランドホテル」は駅に隣接していた。

3日目915日(土)

今日の予定は深谷宿までの10,5km。午後5時までに深谷駅に到着すれば良いので気持ちにはゆとりがあった。そのゆとりの所為かホテルのスタートは930分になった。

駅の南側から北側にエレベーターを利用して渡る。昨日右折した「本庄駅入口」の信号の角までは約500mほどだったろうか。右折して中山道入る。「本庄東中前」の信号を過ぎしばらく行った所で、東から西へ向う一人歩きの男性に会った。出身は九州だと話しておられた。

「日の出4丁目」の信号のある交差点を過ぎ「新泉橋」にかかる。下を流れる川の名は「元小山川」。

昨日は3つの宿を跨ぎ歩いたが今日は10km先の深谷宿だけを目指す。この10kmの間に3組の対向者に会った。2度目にあった人はまだ現役の働き盛りらしく、連休を利用して5日間の日程で京都を目指しているとのこと。今回の歩行予定には碓氷峠も含まれる。つい先日歩いてきた峠路を、これから歩かれるとは羨ましい気もする。

次に出会ったのは40歳代ぐらいの若い夫婦ウオーカーだった。

村を外れるとぱっと明るい畑道に出た。

「こやまがわ」と彫ってあるようだが判読し難い川に架かる「たけおかはし」を渡ったころから明るいオープンな畑道を歩くことになった。

しかしそれも束の間、また国道17号に入る。しかし少し歩くと「右中山道」の標識。少し

迷ったが地元の人に確認。

国道を右に曲がり村道に入って200mほど歩くと「まるや」と書かれた看板のお店から「少し休んでいきませんか」と声がかかった。丁度ジュースベンダーも見えたのでここで飲み物を仕入れるためリュックを下ろしてショートブレイク、と思ったのだが、結果的には1時間近く休ませてもらうことになった。60数歳のご主人とあやちゃんという3歳のお孫さんとそのお母さん。あやちゃんは、おもちゃのマイクを持って一小節フルに歌ってくれた。あやちゃんの仕草に見とれていると、奥からもう一人お爺ちゃんが出てきて、家の横に置いてあった小さな車に乗って、さ!と走り去った。あやちゃんの97歳の祖々父であるという。97歳で車を運転して魚釣りに行かれたそうだ。「97歳で運転大丈夫なんですか?」失礼なことを聞いてしまった。

しかし驚いた。生きているだけでも大変なのに車を運転して魚釣りとは…。

この場を離れ難かったが先を急がねばならない。あやちゃんにさよならして再び東へ向う。「産泰神社」を過ぎる。「普済寺入口」の看板、しかしお腹が減って仕方ない。コミュニティバス「岡谷西」というバス停を過ぎると2階建ての家の屋根と高さほどもある「そば処伊勢路」と書かれた大きな看板。ごく!と喉が鳴った瞬間「本日お休み」の文字。

空腹街道を情けない顔をして歩くこと20分、今度は間違いなくオープンしている「大興」という中華料理屋。ここで十二分に腹ごしらえをした。念のため店の人に中山道のルートを確かめて再び歩き出す。17号線に入る。「宿根」の交差点で再び17号線を出る。この辺りの中山道は国道と手をつないでつかず離れずの仲という感じ。根総鎮守・瀧宮神社」を左に見て過ぎる。もう深谷の駅も近そうだ。右に曲がり踏切を渡った所に建つ「浄土宗清心寺」に立ち寄った。ここまで来れば時間にゆとりがある。

「清心寺」には平清盛の弟、武勇その名の優れた平薩摩守忠度のお墓がある。

清心寺からは深谷の駅はもう目と鼻の先だ。深谷は宿場らしき趣きは全く感じられない。宿名の書かれた標識も目に入らなかった。嘉永元年創業の蔵元、前橋藤三郎商店の「東白菊」の大きな煙突、いせや本店を過ぎた次の信号を右折すれば駅は目の前。JR深谷駅は東京駅(丸の内)をモチーフにしたレンガ模様の立派な建物。駅正面には「渋沢栄一」の大きな銅像。横のからくり時計にも渋沢栄一の名が冠されているそうだ。 今日はこの駅から東京回りで帰途につく。


中山道第27日目  「深谷〜熊谷〜鴻巣
                    
                    24
119()10() 

                                                                                                         

1日目 深谷駅13:13着。深谷〜熊谷  4時間20分 歩数25718

2日目 熊谷〜鴻巣(駅着1620分)  7時間40分 歩数32312歩   

今回は久し振りの12日の行程だ。

深谷駅を1330分から歩き初めて初日は10,7kmであったが、宿場の位置と駅の位置を読み違えたのか随分遠い距離を歩いたような感じであった。実際万歩計の表示も25718歩、
経過時間も
4時間20分かかった。

これに反して2日目は16,3kmであったが、32312歩で予測していたよりも短く感じた。

特記すべきハップニングが5つほどあった、

先ず中山道を歩いて始めて富士山が遥か彼方ではあったが見えたこと。

次に朝ホテルで勘定を済ませた時、籤引きサービスがあり『当たり』くじを引いて現金千円が当たったこと。

3つ目。熊谷の宿場で80歳ぐらいの老人に道を尋ねた。しばらく道路標識にお目にかかっていない時間帯で、正しく中山道を歩いているかどうか不安だった。1車線の車道の両サイドに歩道のある場所であった。「これ中山道ですね?」「これは歩道。そちらが中山道だ」指差されたのは歩道と並行して走る車道だった。

次は、夕飯を食べに入った熊谷の蕎麦屋の女将さん。楽しい人で中山道のことをあれこれ聞かれた。街道歩きに興味をお持ちのようだった。ついでに言っておくが蕎麦は大変美味しかった。

5つ目は、熊谷から鴻巣までの道中の道端のそう大きくは無い畑の隅に柿の木があり、実がたわわになっていた。あとで確認すると昭和14年生まれの女性が、野良仕事に余念が無かった。「あの柿は渋ですか?」「いいえ甘いですよ。よければ差し上げましょうか」と、枝ごともぎ取り我々に数個づつくれた。それだけではない。辛み大根の話しから、辛くは無いが大きな大根やたまねぎの苗まで頂いた。

旅の大きな魅力の一つに見知らぬ土地の人たちとの出会いがある。今回お会いしたのはいずれもお年寄りの男女であったが3人ともお元気そのものであった。

初日11月9日(金)



さて、今回は深谷駅からスタート。

前回までは、大阪からほぼ1日かけワイドビュウしなの特急で軽井沢経由であったが、今回からは新幹線を使って東京回りになる。

出足からちょっとしたハップニングがあった。相棒がカメラを車内に忘れたということで慌てたが結果的には首に巻きついていて事なきを得た。駅前の渋沢栄一さんの銅像は、今朝はクレーン車が放水してお化粧中であった。

中山道通りに入って直ぐ「からさわかわ」に架かる「ぎょうにんばし」を越えると、深谷駅の赤いタイル張りを模した「深谷郵便局」があった。早速1,000円貯金。通帳の数字は既に4万円を越えている。これで完歩の暁には大いに祝完歩の会を盛り上げたいものだ。

歩き出して先ず注目するのは旧深谷宿常夜灯。4mの高さは中山道ではもっとも大きいという。

道路の左側に埼玉県立深谷第一高等学校があった。文科系の活動の盛んな学校のようで全国大会出場の横断幕が張り巡らされていた。レンガの産地の趣は駅舎や郵便局にも見られたが、この学校のフェンスも赤レンガの趣を呈している。深谷市はねぎで有名だがレンガでも有名だ。深谷高校の中山道を挟んだ向い側に、観光案内にも出ていた「見返りの松」があった。

隣の宿「熊谷」が飯炊き女を禁止していた反動で、この深谷宿には旅館、旅籠が林立していたと案内書で読んだ。江戸から西へ歩く旅人は昨夜の女との別れを惜しんだという松である。

深谷高校の隣に市立幡羅(はたら)中学校が並んで建っている。

愛宕神社を過ぎる。この辺りから閑静な住宅街が続く。左右にポプラの並木。ただし車道は相変わらず車の往来が激しい。駅から4kmほどしか歩いていないのに本日2回目の郵便局に出会う。幡羅(はたら)郵便局。少し歩くと京都の伏見稲荷とよく似た赤い鳥居の続くのを左に見てそのまま進む。

先ほどから中山道の標識を見ない。標識がないと間違った道を歩いているのではないかという不安に襲われる。

国道17号線に出てから「中山道→」の看板が見えたのでほっとする。右へ折れてすぐに「農林総合研究センター」があったのでここでショートブレイク。















樹齢
300年の欅の一里塚が住宅街の真ん中に立っている。ここを過ぎると再び国道17号線に合流。「川の博物館」という標識が信号灯の横に見える。熊谷警察の前を通り過ぎるころには早くも街をゆく車は点灯している。午後528分やっと本日の差し当たっての目的地「熊谷駅」に近づいてきた。午後540分駅前。「ホテルR&B」への道筋を訊ねてホテル到着は午後550分。

20一旦部屋に荷を解いて夕食に出かける。今夜は駅近くの蕎麦屋さん「木村屋」。駅の案内所で訊ねたときは「閉まっているかもわかりませんが…」ということであったが閉店ではなかった。ここの女将さんが「中山道」に大変興味を持っておられて、いろいろ質問が返って来る。お蕎麦も大変美味しかった。

2日目1110日(土)

天気予報によれば今日は雨。だが朝は陽がさしていた。

840分ホテルをスタート。直ぐに中山道に入る。このあたりの中山道は83号線。しかし直ぐに17号線に入る。この辺りの地名にも銀座という名前が使われている。少し町並みの雰囲気が田舎っぽくなった所で、自宅の前にいたおばさん(50歳ぐらい?)に念のため訊ねてみた。「旧中山道はこの道ではありません」といって詳しく教えて頂いた。多分17号線と平行に走っているもう少し細い道だろう。直ぐに教えてもらった道を歩き出すと中山道に出た。

歩きだして直ぐ、道に沿って拡がる100坪ほどの畑で働くおばあさん(見かけはおばさん)に出会った。柿がたわわになっていたので「あれは渋柿ですか?」と尋ねた。「いいえ甘柿ですよ」と数個づつ枝ごともぎとって我々に与えてくれた。大根も引っこ抜いてくれた。下仁田ねぎも植わっていたがつい先ほどのスーパで買ったばかりだった。最後に玉ねぎの苗も2,30本頂いた。ここでの30分は楽しい出会いであった。

先を急ごう。

中山道らしい雰囲気を持った道が続く。「東竹院」の看板を見た。道から少し入組んでいる場所だったが立ち寄ってみる。柿と大根で背中のリュックは少し重くなっている。この辺りは車も少なくまさに中山道らしき雰囲気の道。少し行くと右側に荒川の堤が見えたので堤防道を歩くことにした。結果的にはこれが中山道だったが当初は脇道だと思っていた。

堤防道は1時間ぐらい歩いたのだろうか。中山道を歩きだして初めて「富士山」の姿を目にすることが出来た。遥か南西の方角になると思うが冠雪した富士が薄くではあるがはっきり見えた。堤防だけに風が強くなったが空は雲も無く青一色。ジョギングする人が次々私たちを追い越してゆく。昭和229月の「キャサリーン台風」でこの荒川が氾濫し決壊した。そのモニュメントとして『決壊の跡』の碑が建っている。

また手作りの看板があった。矢印と中山道の文字が決して美しいとはいえない字体で書かれている。タイミングのよい場所に建てられたこんな看板は中山道を歩くよそ者には実に有難い。

堤防を降りたところに「権八地蔵」があった。鳥取藩士平井権八は脱藩し、江戸へ逃れる途中で絹商人を殺害し、この地蔵に「誰にも言わないで」と頼むと「我は言わぬが汝も言うな」という返事が返ってきたという。説明の添え書きに「鴻巣市指定民俗資料」とあった。

「中山道トイレ」と書かれた看板を過ぎてしばらく進むと「中山道至熊谷宿」の立派な石碑があった。吹上の街に入り「吹上神社」に立ち寄る。吹上駅は直ぐ近くにあった。駅前の歌壇には「ひな人形と花の町こうのす」の大きな丸い看板。

タクシーの運転手に教えてもらった「たけや」という食堂で昼食。

『中山道こうのすふきあげ』と赤色で書かれたまだ新しい石碑。また電柱に張られた手作りの張り紙。「中山道この先歩道なし車に注意」。旅行者には暖かい心遣いを感じ取れる。「JR北鴻巣駅」の表示を過ぎる「武蔵水路」を越えると「虫封じ祈願郷社氷川八幡神社」。「箕田郵便局」の前を通ったが今日は土曜日で休局。『箕田小学校』には「ひなん所」の金属性看板。鴻神社を過ぎると鴻巣駅入口の看板が信号灯の横に、鴻巣郵便局を過ぎると鴻巣駅は目前だった。

駅到着は1620分。予定より早かった。 


中山道第28日目  「鴻巣〜桶川〜上尾〜大宮〜浦和」

241116()17() 

                                                                                                         

1日目 鴻巣駅12:32着。鴻巣〜桶川〜上尾  4時間50分 歩数23017

2日目         上尾〜大宮〜浦和    6時間35分 歩数29479歩   

前回に続き今回も12日の行程だ。

2年半前にスタートした中山道も今回を終われば最終回の22,8km一回を残すのみとなった。

今回の23,2kmを含め、残すは487kmだ。最終回の22,8kmは余裕を持って道中を充分楽しみながら歩きたいと思う。時間的には12月実施可能であるが、楽しみを使い急ぐのは惜しい気がするので年明けに実施したいと考えている。   

さて今回は前回のように特記事項はあまりなかった。

ただ2日目の17日は大阪も東京も雨だったのに、我々が歩く中山道には雨が全く降らなかった。中山道のお天気神は老齢の我々を哀れんで雨を他の地域に配分してくれたのだと思う。

初日1116日(金)

鴻巣駅を1240分にスタートした。

歩き出して直ぐに鴻巣郵便局があり早速1,000円貯金。

「鴻巣本陣跡」の石碑が道路脇に建っているが建物の跡形はない。熊谷から鴻巣へ入る道すがらには道路にコウノトリの石細工が施してあったが、何故かここには兎が笑っているイラスト。

本町の信号を過ぎると「鴻巣宿」の黒い石碑。雛人形の街だけあって「雛人形町」の赤い幟が街路灯の黒いポールに下げられている。「臼井人形店」、「124日酉の市」のポスター、「ひなの里」の石碑を横目に見ながら「広田屋ひな人形」のひときわ大きな看板。2階部分のショーウインドウには「五条の弁慶」という見出しで、牛若丸と弁慶の人形が五条大橋で立ち会っているシーンが見える。また店の前には「長寿橋」の模型が置かれ、中国の古事にちなんでこの橋を渡ると長生きするという説明が読める。

北本市に入り「深井二丁目」の信号を過ぎる。

「魚孝鮮魚センター」「麩まんじゅう・やまと」の店、「星乃コーヒ」「がってん寿司」などレストラン街のような通りに続いて「村社・浅間社」があった。「奉祝天皇陛下即位20年記念植樹」の表示も見える。右北本駅の標識。我々が今歩いているのは164号線らしい。多門寺はそのまま通り過ぎる。と言うより門が閉まっているので入れる雰囲気ではない。やっと見つけた「中山道街路灯NO26北本市」の黒くて大きな石碑。中山道の標識を目にすればほっとする。「中山道北本宿」という石碑を見つけた。はて?中山道に「北本宿」というのがあったのか。私が見た書物にはこの名前の宿はなかったがー。

説明板によると、もと本宿として存在していたが鴻巣宿に吸収されたようだ。「北本宿」の表示は街道沿いで何度もお目にかかる。北本宿という市民権をアピールしているかのようだ。

しばらく行くと「北本市本宿」という信号があった。「もんじゃ焼きとお好み焼き」のお店、もんじゃ焼きを食べて見たいと思ったが時間的余裕はなかった。つづいて「北本湯楽の湯」温泉だ。お風呂好きにはここでの泊まりならぜひ浸かって見たい雰囲気の湯。

「桶川市役所入口」の信号表示に続き「中山道桶川宿」の石碑。桶川の宿に入ったのだ。

「うどん蕎麦今福屋」「50m先稲荷神社」のあと「中山道桶川宿手洗い処」の案内表示。この宿は街道歩きの人間に親切なのだろう。

『左上尾宿34丁』の石碑前で写真を一枚。桶川駅前通りを過ぎると「あった!」「武村旅館が!」。街道を東から西へ歩いている先輩から推薦されていた旅館だ。しかし予約電話を入れたら「長逗留者が居るので」駄目と断られた。いかにも中山道らしい純日本式旅館の風情。ここに泊まれなかったので今回は上尾の第一ホテルにした。私の星は二つだった。

上尾市の信号灯看板を通り過ぎればそこは夕暮れの始まりだった。「がってん寿司」を過ぎ、「彩の国平成の道標」の標識を写真に収めた時、辺りはもう薄暗くなっていた。

今夜の宿は「上尾第一ホテル」で駅には大変近い。






二日目
11
17日(土)

今日は全国的に天気が悪いという予報であるしかし朝方、天気は悪くなくむしろ晴天であった。

ホテルスタートは9時。信号灯に「上尾駅東」の看板を見て中山道に入る。明日18日はシティマラソンが行われるらしい。あちこちに看板が立っている。「シティマラソン開催中につき中山道は通行できません」迂回をお願いします」

しばらく歩いたところで念のため、家の前をほうきがけしているおばさんに「中山道はこの道でいいのですね?」と訊ねた。「違います。旧道はあっちです」。直ぐに教えられた方向に道を変えた。なるほど中山道らしき道に出た。尋ねてよかった。街道歩きの経験で必要以上に道を尋ねたほうがいいということを知っているが、まさかという思いから声をかけずに過ぎることがよくある。間違いは早めに正すのがよい。小田井宿〜追分宿のように次回に正しい道をなぞりなおすこともあったのだ。

「愛宕神社」を過ぎる。またシティマラソンの看板。「大会当日走路となるため通行止めとなります」。急に小用を足したくなったので大きな商業施設のようなビルに入っていく。トイレの所在を尋ねれば「奥のボーリング場の中にあります」と言う。計らずもボーリング場というところに何十年ぶりかで入った。

横浜ゴムの配送センター、広い駐車場を備えた大型商業施設「バリュープラザ」、「コーセ化粧品埼玉支店」、「さいたま市営コミュニティセンター」、赤い鳥居があざやかな「南方神社」、「宮原中学校」、「大宮北高校」、「宮原小学校」、などを過ぎれば「加茂神社」。五穀豊穣と萬物を育てる神と説明が読める。境内で10分間休憩。

宮原駅入口の信号灯看板を過ぎる。道路標識から察するに中山道はこの辺りでは国道164号になるらしい。「家具ホームセンター・島忠」。通りに面して「かっぱ寿司」があったのでトイレを借りに入る。「大宮郵便局」「天理教埼玉教務支庁」前を過ぎる。「官幣大社氷川神社」の大きな石柱の手前にある高架下をくぐる階段の降り口に「なにかあったら『いかのおすし』」と書かれていた。これを見た当時は、この言葉が防犯標語だということが私には全くわからなかった。

官幣大社氷川神社の石碑の真正面の道端で10分間の休憩。

1235分大宮駅前に到着。交差点近くのラーメン屋に行列が出来ているのを見て、きっと美味しい店だと判断し行列に並ぶことにした。とんこつラーメンは期待通りであった。この店の向いは高島屋百貨店だった。

お腹もふくれ30分の昼食休憩もとったので、残り4,9kmの浦和宿を目指して再び勇んで歩き出した。「ニューライフカタクラ」はゴルフの練習場だろう。

ケヤキの並木道が延々と続く。道中記に2kmと書いてあったが2kmの距離よりは短いだ

ろう。この並木をdf抜けるとさいたま新都心の新しい町に出た。いかにも出来たてのまっさらの街の感じ。

「一本杉」と書かれた古く汚れた石碑が道路際にあった。「この地は、中山道界隈で一本杉の仇討ちとして語り継がれた事件のあった場所です」。水戸藩士宮本佐一朗の息子鹿太郎が、針ヶ谷村の一本杉で父の仇討ちをしたという話が、中山道界隈に語り継がれたということです。

道中記にも書かれていた浄土宗「廓信寺」に来た。時間に余裕があったので入ることにした。敷地内には幼稚園が併設されている。「厚徳幼稚園」。「秩父宮妃殿下御成お手植えの樹」は(紅梅)。昭和3255日の日付だが表示板に古さは感じない。

再び街道に戻る。さすがサッカーの町。浦和レッズの応援表示が通りのあちらこちらに見える。『町が赤く染まる日REDS戦いの日』という勇ましい看板。道端に並ぶ「レディア像」や選手の手形・足型の銅版。

常盤公園への導入路に、農婦が手に大根、足元にかぼちゃを置いた銅像が3体あった。

街角に建つ「中山道浦和宿」の石碑は優に2メートルはある。

左浦和駅、右県庁の大きな標識を過ぎれば浦和駅西口に到着。







ついに最終回

中山道第29日目  「浦和宿〜蕨宿〜日本橋」

25117()19() 
                                                                                                         

1日目 浦和駅1305発。蕨(西川口ステーションホテル)着 18時間05 歩数27359

2日目 蕨宿(西川口STホテル)835発〜三越(日本橋)18時間20 歩数40514歩   

3日目 御茶ノ水 1005発 日本橋1130着          歩数8525

    

75歳にひと月を残す6月に京の三条大橋をスタートした足は、満76歳を6ヶ月過ぎた1月に江戸日本橋を踏んだ。

2年と6ヶ月、回数にして29回、日数計算で41日かけて533kmを歩いたことになる。

実際は、間違ったルート歩いてしまい、次回に正しい中山道を歩き直したり、歩行途中で間違いに気がついて正しいルートへ引き返したことは数度ではきかず、実際は550km以上歩いているように思う。

雨の日もあった。暑い日もあった。寒い日もあった。そして私にとっては、新しいキャラバンシューズが足に合わず、靴擦れと、足の擦過傷に悩まされた「和田峠」の一番辛かった苦しい思い出がある。それが中山道で一番厳しい20kmの峠道で起こったのは不運であった。

登り10km、下り10kmの和田峠がアクシデントも重なった私には最もきつい難所であった。

それでもその翌日は和田宿から18,3km先の望月宿まで歯を食いしばって歩いたが、一夜明けた次の日の朝、足首から先が大きく腫れ上がり、無念にも次の日の予定を中止して引き返さざるを得なかった。

足の痛みに加えこの夜はもっと恐ろしい目に会った。峠道を降りきったところで山中の国道142号線に出た。この頃は辺りはもう真っ暗闇、自分の居る場所さえわからない。已む無く宿泊予定の旅館「本亭」へ電話を入れたが「今どちらに居ますか?」と言われても、自分の居場所が真っ暗闇の山の中では言い様がない。とにかく下り道を辿りさえすれば何とかなるだろうと142号線を歩き出した。しかし夜の国道の恐ろしさを直ぐに思い知ることになる。

100キロレベルの猛スピードで大型トラックがひっきりなしに走る。歩道は車道に引いたガードレールとの間隔が僅か80センチほどの幅。トラックが来る度に、背中のリュックを引っかけられないようにガードレールの外へ身を避ける。自分の体と走るトラックの車輪は1メートルほどしか空いていない。もちろん運転手からはこちらの姿は見える筈はない。トラックが走り去る度に素早く先を急ぐ。トラックのヘッドライトが見えたらまたガードレールの外へ身を避ける。こんなことを1時間以上繰り返して先に進んだ。

後日振り返ってみてもあの夜の行動は無謀であったと思う。よく事故にならずに済んだと思う。国道が142号線だったのも縁起が悪かった。一番に死ななかったのは幸運だった。

太平洋を友として歩く東海道とは対照的に、中山道は日本の山々を友達として歩く事になる。まず三条から大津への峠は逢坂山、草津から暫らくは、伊吹山の雄姿に疲れを忘れさせてもらいながら歩いた。伊吹山と別れたら次に会ったのは鈴鹿山系。大きくはないが姿や形のいい恵那山も印象的だった。まさに木曽路からの眺めであったこともその印象を強くしたのだろう。次に現れ出たのは3067m、西日本最高峰の御嶽山。御岳山、みたけさん、など読み方や文字の同じような山の名前が東京都や秋田県など日本にはいくつかある。

次に出会った浅間山は季節が冬であったので冠雪した壮大なスケールで見ることになった。

雄大さという意味ではこの浅間山が最も印象に残った。連合赤軍によって引き起こされた昭和47年の浅間山荘事件。あの時連日テレビにかじり付き、大きな鉄球が河合楽器の山荘の壁面に叩きつけられるのを、ハラハラしながら見ていたのを思い出しながら、銀色の雪に覆われた雄大な峰を眺めながら歩いた。

雄大ではないが碓氷峠を降りた時に目の前に現れたなんとも言えぬ奇妙な形の山には度肝を抜かれた。これが妙義山であった。長い道中で度肝を抜かれた光景は2つあったが妙義山はそのうちの一つ。

その後に現れるのは、標高1828mの赤城山や上毛三山の一つ榛名山があるが、中山道もあの奇妙な形をした妙義山を最後に、坂本宿辺りからは山とはおさらばして平地になる。山を身近なお友達として歩くのは峠の釜飯でお馴染みの坂本宿、駅名では横川が最後になった。

大和田建樹さんの作になる有名な「鉄道唱歌」北陸地方編第17節に妙義山を詠んだ歌詞がある。言い得て実に妙である。

「鉾か剣か鋸か、獅子か猛虎か荒鷲か、虚空に立てる岩のさま、石門高く雲をつく」

もう一つの度肝を抜かれた光景は、安中市の駅を過ぎて広い通りを歩き出した時だ。右の山肌にそそり立つ異様な光景。何かの本で読んだが「悪の巣窟のよう」と表現されていた。思わず「あれは何だ!」と指差したくなる光景だ。これは安中市中宿に建つ東邦亜鉛安中精錬所だということはあとで知った。

街道筋で郵便局に出会ったら、1000円貯金をすることにしていた。休祭日は記念スタンプがもらえないためパスしたが、草津矢倉郵便局で始めた1000円貯金が、最後の日本橋郵便局の1000円できっちり50,000円になった。わずか数十センチの一歩が、その小さな積み重ねで55万メートルの彼方にまで移動できるように、1000円の積み重ねが5万円になる。

多くの人に出会った。一人で峠の下り道を「蛇が出た!」と叫んで降りてきた50歳絡みのご婦人が居た。山小屋で大の字に寝ていたオーストリアからの若者が居た。畑仕事のおばさんは柿をもぎ取リ,大根を抜き、その上大仁田ネギの苗までプレゼントしてくれた。

「ここは中山道ではありませんよ」と教えてくれた人は一人や二人ではなかった。小田井宿から追分宿の道すがら、畑仕事中の農夫に間違っていると指摘された時には、既に引き返すにはあまりにも距離があり過ぎるので日を改めて正しいルートに再挑戦したこともあった。

550kmを超える道中を歩く間には多くの人たちに助けてもらった。こちらが尋ねなくても声をかけて頂いて助かったことも数知れずある。人間世界では一人では生きて行けない。助けあい手を差し伸べ合いながら生きてゆく。中山道行脚も人生の縮図といえる。

多くの人たちの親切に助けて頂いたからこそ、完歩出来たと思う。このブログ上で改めて御礼を言わせていただきます。


1日目117()


寒い。やはり寒い。それでも元気に最後の中山道に向かって歩き出した。浦和駅をスタートしたのは
135分であった。幸い天気は良かった。最初のチェックポイントは「調神社」、「つきじんじゃ」と読む。この「調」という字は「租庸調」の「調」の意味だということは説明文ですぐに解った。参道両側に寄せられた雪を見てまずは旅の無事を祈る。「さいたま市立南浦和小学校」を過ぎま「六辻」の信号を渡る。しばらく歩くと平成3年に開園したという「六辻水辺公園」。入り口から続く道の左側に添って、自然石で仕切られた幅1メートルほどの水路が作られてある。

ここで最初の小休止を10分間とることにした。

実はこの水辺公園から歩き出して間もなく、本日第一回目の道の間違いを仕出かした。センターラインに沿って行けばなんという事はなかったのに、V字型の右の道がなんとなく中山道のような気がしてそちらに機嫌よく歩いてしまった。幸いこの時は300メートルほど先で、親切なご婦人に指摘され正道に戻った。それほど大きなロスにはならなかったのは幸いであった。

「旧中山道一里塚の跡」と言う比較的新しい石柱を道路の左側に見る。「蕨宿」に入った。錦町6丁目3番地の道路際に「中山道蕨宿一番地」の木製縦型の標識。その足元には20センチぐらいの高さで雪がかき寄せられてある。「境橋」を渡る。渡るといっても長さ2メートル半。渡ったという感覚は全くない。錦町5丁目に来ると「一六橋」がある。一と六のつく日に「市」が開かれたことがこの名の由来だとわかる。長久山宝蔵寺の前を過ぎる。「中山道蕨宿」の石柱で記念撮影。この宿内の両サイドの歩道には、40センチ角で中山道69宿場の、歌川広重と渓斎英泉の陶板絵が埋め込まれてある。錦町1丁目の信号を過ぎると「戸田橋」「巣鴨」の文字が交通標識に現れてきた。もう目的地も近い。実は今日は蕨宿内ではなく少し板橋よりの西川口に宿をとってある。

本日2つ目のミスをどうやらこの辺りで仕出かしたようだ。ホテルに向かって曲がるべき道をはるかに通り過ぎてしまったようだ。このためホテルまで行くのに1時間ほどロスをしたと思う。

辺りがすっかり暗くなった頃、一軒のビューティサロンで道を訪ねた。「いとう」という看板の架かったお店のご主人や家族の方たちが実に親切で、お店の中に招き入れて頂き、丁寧にホテルへの道をインターネットで調べて教えて頂いた。心身ともに少し疲れが溜まっていた頃合いだったので、親切さとお店の中の温かさが実に嬉しかった。ホテルの所在地とともに、「いとう」の奥さんに教えてもらった駅前通りの「お好み焼」へ行ってこの日の夕食にした。この店の名前が「道頓堀」というのも大阪から来た身には馴染みやすかった。

2日目118()昨夜の宿「西川口ステーションホテル」は、お髭のおじさんが一人で対応していたが、部屋は予想とは違い大きく、バスルームもこのクラスのビジネスホテルにしては広々していた。

さて、この日のスタートは従来より1時間ほど早い830分。

西川口駅、おにざわ橋、中町一の湯、下戸田二丁目の信号、を経て国道17号に出る。この17号線にははっきり「中山道」と掲示されている。「川岸一丁目」の信号、そして「戸田橋」。1978年竣功(工ではなく功と書かれている)のこの橋を渡っていてふと(多分東の方)見ると、遠くではあるが富士山が見えた。鴻巣から熊谷への途中で荒川堤を歩いた時に、中山道行脚途中では初めて富士山を見たが、今回は久し振りかつ2度目の富士山だ。

河堤の壁面には未だ雪が真っ白に張り付いている。

この辺りの国道17号線にはいたるところに「中山道」の表示が架かっている。その横に「日本橋16km」の表示が見えた。

「板橋東清掃事務所」の建物を過ぎると、「日本橋」への表示は15kmに替わっていた。

「蓮根川緑道」と書かれた石門の上に子供の像が座っている。小さな橋の袂に書かれた文字はやっと「しんこぶくろばし」と読めた。

311号線」環八通りを越える。「華家与兵衛」の大きな看板を掲げたレストラン。日本橋への表示は14kmに替わっている。都営地下鉄「志村坂上駅」の前を過ぎる。

後から追いついた地の人らしい男性が「中山道歩きですか」と声をかけてくれた。この人に教えてもらった「McDonald’s」で一杯100円のコーヒを飲んで15分間の小休止。

案内書にも書かれていた「志村一里塚」にやってきた。徳川家康によって日本橋から1km毎に築かれた一里塚も現存するものは少なくなって、都内では北区西ヶ原とここ志村の2ヶ所だけになっているという。今は区の史跡と指定されている。この一里塚の足元に「板橋10景」と言う表示があり「赤塚溜池公園周辺」以下10ケ所が紹介されている。志村警察前を過ぎると日本橋への表示は13kmになっている。

どうやら国道に並行して「旧中山道」があるらしいのでそちらに移動することにした。これまでの経験からこんなことはよくあることを学んでいた。「板橋清水郵便局」を過ぎる。嬉しいことにこの辺りは「旧中山道」の表示をいたるところで見ることが出来る。

板橋区の登録文化財「縁切檜」にやって来た。離縁や断酒を望む人たちには好都合な木も和宮下向の際には迂回してこの木を避けたと説明板には記されている。


掃き寄せられた雪の塊の中に「中山道板橋宿」と、判読しづらい文字で書かれた石柱が建っていた。宿内に架かる小さな板橋に「距・日本橋二里二十五町三十三間」と縦長の木製の標柱。「旧中山道仲宿」の信号横の商店街入口ゲートにはゆるキャラ君が座って歓迎している。板橋区役所の前を過ぎて暫く行くと「くうかい」と看板を掲げた蕎麦屋さんがあった。お腹が空いていたこともあって、ここで注文した「かもなんばん」は実に美味しかった。鳥肉も本当の鴨であった。1000円でもコストパフォーマンスでは満足だった。

「中山道一番目の宿場」と書かれた道路際の説明板に少し抵抗感があった。私たちにとっては「六十八番目の宿場」だ。ひと目で元お風呂やさんとわかる建物の前を過ぎる。

再び国道17号に合流。「巣鴨2km」の表示看板のあたりで、道行く男性に中山道はこの通りでいいのかどうか確認した。予測通り「旧中山道はあちらですよ」という答えが返って来た。そして「近藤勇のお墓もその方角ですよ」と教えてくれた。今日は時間に余裕があるので立ち寄ることにした。

巣鴨北中学校、庚申塚駅から、庚申塚商店街に入る。随分以前に来たことがある「おばあちゃんの原宿」にやって来た。前に来たときは今日とは逆の方角から来たのでこの商店街がこんなに長かったとは今日はじめて知った。「猿田彦大神」を過ぎ、「とげ抜き地蔵尊」にお参り。地蔵さんに水をかけている人が今日も跡を絶たない。「真性寺」を過ぎると「JR巣鴨駅」前の広い通りに入る。

「すがもばし」「徳川慶喜巣鴨屋敷跡」舗装された道路の道端に雪で作った「カマクラ」が溶けることなく綺麗な形で残っている。温度も体感するよりは低いのだろう。それとも歩き続けているから寒さを感じないのだろうか。

「文京学院前」標識から「六義園」に寄り道する。17号線に戻ったらこの辺りでは「白山通り」となっている。

日本橋まであと6km。「東洋大学」前を通る。柏原君が登りで驚異的な走りを見せたあの大学がここにあったのか。ここにも小さな雪人形が道端で日向ぼっこをしている。本郷通に入る。東大正門から安田講堂に向かってまっすぐ続く銀杏並木を歩く。校外へは「赤門」から17号線の通りへ出た。

本郷三丁目の交差点の交番所で、日本橋へ行く旧中山道の経路を訪ねたが、二人いる警官のどちらもあまり自信がないようだった。実はここに来て道を迷うことになった。何度も道を訪ねたがその度に聞き方が良くなかったのか、教わり方が十分でなかったのか混乱してしまった。少し陽が長くなったとはいえ、辺りはすでに暗くなってきている。日本橋到着は明るい日差しの下でのほうが望ましいと思い、今日は電車で宿泊ホテルまで行き、明日残りの中山道を日本橋まで歩くことにして。この日は神保町から地下鉄に乗って三越前まで行った。

3日目119()

昨夜は小伝馬町の「魚久」という和風料理店で、在京同級生の
M君を誘い中山道完歩のささやかな祝杯を上げた。永年の経験で、東京での食事に美味しいものはないと覚悟して箸をつけるが、この夜のしゃぶしゃぶは大変美味しかった。

さて御茶ノ水駅前から最後の中山道が始まった。最後ぐらいはゆっくり時間を気にせず歩きたい、まず駅前の湯島聖堂に参拝。東京医科歯科大学の門前で写真を撮って、次に訪れたのは、神田明神。境内の片隅には未だ1メートル近い雪が残っている。今日は日曜日もあってか参拝客は多かった。万世橋の交差点と橋を越え、靖国通り、須田町を過ぎ、神田駅北口信号を渡れば日本橋まであと1km。マラソンで言えばトラックに入って第4コーナーを回り最後の100mの直線に入ったところだ。室町4丁目,3丁目,2丁目、目の前の終着点日本橋をスッキリした心で迎えたい。三越デパートに入り手洗いに行く。六十数年前の終戦直後、ごの店にあの下山国鉄総裁はどんな気持ちで入って行ったのだろうか。

最終点に到着の感激はあまりなかった。険しい山道を登り峠の頂上に終着点があったなら達成感はもっとリアルだったろうが、どちらかと言えば道中を楽しみながら歩いた今回は疲れもそれほど激しくなく散歩途中で目的地に辿り着いたという感じであった。