東海道57次第1日目

「大津宿札の辻~墨染(駅)」  27・9・20()

大津札の辻発1200~墨染駅着1720

中山道を西から東へ踏破した後、今度は東海道を、甥の小西恵二と共に平成261016日、お江戸日本橋から西に向かって歩き出しました。そして、年が明けた279月現在静岡県藤枝まで到達しています。ところで東海道53次と別に「東海道57次」もあると耳にしていたので、いずれは57次も歩きたいと考えていた。27年の夏は特別暑い日が続いたので、7,8月の2ヶ月は東海道ウオーキングを中断し、928日から再開することにした。2ヶ月間のブランクを懸念していた時、9月末から再開予定の東海道53次のウオーミングアップもかねて、東海道57次歩きを思い立った。そうなればじっとしては居られない。920日、スケデュールの全く無い日が出来たので取り敢えず一歩を踏み出すことにした。

東海道57次と言うのはてっきり53次の終点である「京都三条大橋」から大阪高麗橋まで続いているのだと思っていた。ところが違った。大津宿と三条大橋の中間でこの両道は分かれて進むのであった。これが私の興味をいやがうえにも増させることになった。

 

第一日目 大津札の辻1200発~墨染駅1720着 

27920() 快晴

札の辻に最も近い駅は京津線「上栄町」。ここに1141分に到着。まず、最初に「札の辻」の交差点を探すのに少し手間取った。この辺りの住人らしいおじさんに尋ねた。

「京町1丁目」交差点が札の辻の交差点と聞いてここから歩き出した。この道は中山道を京都三条大橋から東へ向って歩き出した最初の行程で、今日とは逆方向の西から一度歩いたことのある道である。歩き出してすぐに歩道左側に「大津宿本陣跡」の説明板、続いて「明治天皇聖跡」の碑がある。「聖跡」とは何のことかわからなかった。この道は国道161号、前にも立ち寄った「蝉丸神社」が道路の反対側(北側)にある。

今日初めて知ったが「旧逢坂山隧道」という、かつては国鉄が使っていた「トンネル」跡があるのを知って驚いた。トンネルの入り口は今もそのまま残っていた。

また同じ側に「蝉丸神社上社」がある。

ところでこの161号線は自転車ハイクの人にひっきりなしに出会い、また追い越される。大柄な外人さんも追い越していった。

上り坂がやっと終わった。峠の頂上には常夜灯と並んで「逢坂山関所跡」の碑がある。「これやこの行くもかえるもわかれては、知るも知らぬも逢坂の関」(蝉丸)

道が下りに差し掛かった時、何か騒がしい雰囲気に気付いた。ガードマンが車を誘導している。何だろうと驚いたが、江戸時代から有名だといわれる鰻の店「かねよ」にやって来るお客の車を誘導しているのだった。以前通った時には入れなかったので、今日こそはと思ったが、30分以上は待たねばならない様子。今日もまた諦めた。その代りと言う訳でもないが蝉丸神社には少しゆっくりお参りした。

逢坂山の京方向への下り道を歩き「月心寺」の前にやって来た。井戸の水は滾々ときれいに湧き出していた。

名神高速道の高架下を潜り横断歩道橋の脇に交番がある。ここからほぼ400㍍先に、私が心待ちにしていた53次と57次の追分がある。

「そうか、ここだったのか」。どこで53次と57次が分かれるのか、ということに関心があった。今日は左の道へ進むが、かつて三条大橋から中山道を歩いた時は、この右側の道からやって来たのだ。この三差路には覚えがある。角に立っている方向表示板にも覚えがある。

さあ、ここからは未知の道だ。ここからが今日の楽しみだ。なるほど、この辺りの町名も「南追分町」となっている。病院前の2差路を左へ進む。鶴喜そばの大きな建物、しばらくは国道、多分1号線に沿って歩く。

住宅街に入る。「妙見宮」の前を過ぎる。「マツヤスーパー」が左にある。見上げたら電柱に「奈良街道」の表示。「岩屋神社」を過ぎると「おおやけ一里塚跡」の石柱。知らない街を歩くのはわくわくする。

「大宅鳥居脇町」「大宅中学校」、この辺りの地名は「大宅」らしい。「山科けいさつ」前で道を間違えそうになった。警察の建物を右に見て右への道に入る。

「勧修寺」の正面に来た。突き当りを左へ進む。この辺りは前に一度来たようなそうでないような…。「大岩神社」の石碑前を過ぎる。目印にしていた「京都ピアノ技術専門学校」の次に「深草毘沙門天」。もう深草にまで来ていたのか…。

「京都教育大学」の門前に来た。教育大学はここにあったのか…。続いて「藤森小学校」の校門前を通り過ぎると、京阪電車「墨染駅」へ来た。浜大津方面から京阪墨染駅に到達するなんて不思議な気持ちだった。









            東海道57次第2日目

                   「墨染駅~淀駅」  271123()

   墨染駅13;45~淀駅着16:35

東海道57次第2行程である。

東海道57次歩きを思い立ち、第一回目を大津「札の辻」歩き出して、早2ヶ月の月日が経った。

空模様は良くなかったが雨が怖くてはウオーキングなどできない。雨が降れば傘をさせばいいのだと昼ご飯を食べる時間を惜しんで飛び出した。バナナを一本掴み、枚方市駅で三角おにぎりを一個買って1345分に前回の終着地「墨染駅」に着いた。今日も又、インターネット氏の紀行文が頼りだ。

まず墨染駅前を西へ向かう。すぐに「墨染橋」を渡る。三上食品店角を左折、京町通を右に入り、ケベッケン菓子店角を曲がり、南へ西へ、左折右折を何度か繰り返して進む。

板橋幼稚園のあたりで道を間違えた。左へ行くべきところを真っ直ぐ行ってしまった。T字路のTの方向を読み違えた。Tの字を右に倒して読まなければいけなかったのだ。御駕篭郵便局前を通り、伏見区役所を過ぎ、中書島の商店街を横切る

「浅山眼科」を右に曲がると明治28年に日本最初の電気鉄道である「ちんちん電車」が初めて走ったという通りに出てきた。この通りは「油掛通り」と云うらしい。黄桜酒造の「カッパカントリー」前を過ぎ、 「駿河屋本店」の角を左折。

前方の橋「京橋」の手前を左にちょっと寄り道する。有名な「寺田屋」がある。以前入っているので、今日は中へは入らなかった。元の道に戻り京橋を渡る。この橋の下を流れるのが中書島の30石船が行き来する川で、両岸の柳の木が何とも言えぬ風情を醸し出している。57次の道程では最高のビュースポトだ。

橋の少し先に何本かに分かれた道があり、右側の道が旧東海道。正面に京阪中書島駅が見える。気が付いたが、なんとここは昔私が会社「ザ・クリエイション」を立ち上げるとき、設立手続きのため2,3度やって来た司法書士事務所の近くだ。しばらく歩き、京阪の踏切を渡り高架道路のガードをくぐると宇治川にぶつかる。ここから先は宇治川沿いの堤防道が延々と続く。退屈な道だ。時々車がスピードを出してすり抜けていくので堤防道とはいえ愉快な道とは言えない。

しばらく歩くと道は右方へ曲がり下りて京阪電車の踏切を越える。今度は線路を左に従えてひたすら西へ歩く。この時期つるべ落としと表現される秋の陽の落ち方は早い。

それでも前方に淀競馬場の大きな建物が見えてきた。陽が落ちるまでに淀駅に着きたいという願いはまず達成された。しかし淀駅に来て見てびっくり。改装されて駅は従来の姿をまったく変えていた。少し休憩して今日はここまでにしようと思い、駅近くに「たこ焼き屋さん」を見つけたので迷わずその店に入った。




東海道57次第3日目

「淀駅~楠葉駅」271130()  淀駅12;00~楠葉駅着15:25

東海道57次の歩きを思い立ち、第一回目を大津「札の辻」から歩き出して、はや2ヶ月の月日が経った。

今日は快晴。12時数分前に京阪淀駅に到着。先日歩き終わって休憩のため入った「たこ焼き屋」の方角が今日のスタート地点「納所(のうさ)」の6差路の信号だ。もっとも左の道とインターネット氏は書いていたので、その通り左の道に入る。

少し歩いたところでこの道は以前良く車で長岡天神の方へ行くとき走っていた(今は13号線)であることに気が付いた。

しばらく歩いたところで、淀城跡公園に差し掛かった。氏の記録ではこのお城跡は見過ごしてしまったとある。電車からはいつも見ているが、実際足を踏み入れたことがなかったので、今日はここではゆっくり時間をとって見物した。

ころで、この公園を出て十数分歩いたところで、どうもこの道はインターネット氏の書いた道とは違うような気がしてきた。書いてあるポイントが全く見つからない。車のびゅんびゅん走る国道だ。だから氏はこの公園に気が付かなかったのかもしれない。考えた結果、今日はこの道で行くことにした。いずれにしても3本の川が集まるところでは御幸橋を渡ることになるのだ。

御幸橋の袂から西に延びる2本の川の間の並木通りが「背割り堤」で、時々映画のロケにも使われている場所だ。ちょっと入り口まで立ち寄ってみた。歩きたい欲望に駆られるが、ここを歩けば目的地の川向うに渡るには、枚方大橋まで行かねばならない。今日は無理だ。

御幸橋を渡った処で少し迷った。しかしそれらしき道を見つけて自信をもって八幡市自転車置き場を右に曲がり、住宅街のような細い道に入った。堤防下を並行に走る一本道だ。千年の楠木も見つかった。

飛行機作りに挑んだ二宮忠八飛行器工作所跡を見た。「機」ではなく「器」、「製作」ではなく「工作」という表現に少し自信のなさと控えめさを感じた。この辺りは左には京阪電車の鉄道線路、右は車が走る国道13号線。その間にある細い道。

「右はちまんへのみち??」と読みづらい石柱。橋本の住宅街から元くるわ街をに入る。何年か前にやって来た時より廓的建物が随分少なくなってしまったような気がした。

ここを抜けてパット明るい見晴らしの通った場所に出る。電車の窓からいつも見ている「久修園院」が左手に近く見える。今歩いている道は新しく作られつつある道路で、歩道はこうして歩くことが許されているが、隣に接している車道は、まだ完成していないからか走行禁止になっている。この道を抜けると再び住宅街に入る。

曹洞宗のお寺「久親恩寺」の前を過ぎ「松栄山長福寺参道」の石碑を左に見ると「旧京街道」の石碑ありここから少し歩けば楠葉の京阪モール前に出た。今日は3時間半弱のウオ―キングだったが休みらしい休みも取らず歩いたことでもありここで終わることにした。次回は楠葉モール前からのスタートになる。






   
   再歩行分    東海道57次第3日目

「淀駅~石清水八幡駅」再歩行   2832() 

                            淀駅15;10~石清水駅着17:00 

前記のように昨年1130日にこのルートを歩いた。だが後でよく考えてみると、どうも道を違えていたような気がするので再探索することにした。あれから3ヶ月経っていたが、今日午後からスタートすることにした。

今日は晴。15時過ぎ京阪淀駅に到着。まずなぜ先日間違えたのか資料と睨み合わせて検討。先に歩いたルートを数百メートル戻ってみた。

原因はすぐわかった。「納所」の交差点に着く手前2,3百メートルのところで左へ曲がってしまったのが間違いのもとだった。そのまま真っ直ぐ行き「納所」の6差路の信号に出ていれば、そこを左へ曲がると正解だったのだ。結果的には説明書と方角的に逆の方向に進んでしまっていたことになる。

「納所」の6差路のもっとも左の道を左折する。すると、京阪淀駅の方向に向かうことになる。何のことはない,先日歩いたルートと全く逆の方向に向かうことになる。 

街並みが整理された為に犠牲になったような古い商店街を、北から南方向に抜け、駅のガード下を潜ると「京都競馬場」の横長の黒っぽい石碑が嫌でも目に入る。道はその先で右へカーブする。「伊勢向神社」の前で右側の道を進む。 

しばらく行くとインターネット氏が「競走馬の運搬に免許が必要なのか…」とブログに書いていた「竹内運送株式会社」の前に出た。確かに「運輸省免許」と看板に書かれている。

暫くの間、如何にも旧街道らしい雰囲気の住宅街を歩く。細い人工の川に架かる桜が膨らみ始めた橋を過ぎ、いくつかのお寺の前を通り、少し開けたところで左手のやや遠くに鳥居が見えた。鳥居の右手前に「美豆城跡」と辛うじて見える石碑がある。

このあたりで散歩中の地元の男性に出会った。定年後毎日、決まったルートを歩くのだという。お仕事は?と聞くと、はっと立ち止まって敬礼し「自衛隊員であります」。ユーモアのある自衛隊員だった。

「松ヶ崎記念病院」前を過ぎ田んぼ道の中を歩いて行くと前回も立ち止まって写真を撮った「御幸橋」の袂に出た。夕陽が欄干の影を御幸橋の石柱に写していた。前回間違えたので、正しい道を歩き終えて気持ちがすっとした。

跡は先日と同じルート。御幸橋を越え今日はそのまま直進して京阪電車石清水駅から帰途についた。

 


東海道57次第4日目

「楠葉駅~枚方市駅」  28127() 

楠葉駅11;40~枚方市駅着15:25 歩数15877

東海道57次、本年(28)度第1回目のウオーキングである。新年早々から風邪を引いた。恒たちが帰った翌々日の5日から、そして今回、今まで殆ど経験したことのない腰痛が興りだした。風邪は2週間以上長引いた。腰痛はまだ続いている。最初の頃はお尻に右手が回らない程だった。が、さすがに今はそこまでは酷くない。ただクラブが振れる状態ではない。しかし来月からまた東海道が始まる。2週間もベッド中心の生活が続いていたので、そろそろ起動しはじめなければならない。

今日、東海道57次は楠葉から歩くことになった。

今日はまずまずの天候。1135分頃京阪樟葉駅に到着。先日歩き終わった地点《パチンコ屋の角》に向かう。

今回は勝手知った歩き慣れた道だ。まず府道13号に入る。車の往来の激しい堤防道なので、心配していた道だった。しかし実際来てみてわかったことだが、車の往来の激しい堤防道路の東側に、柵付きの1m以上道幅のある歩道が付いていたので安心した。

数百メートル先の「樋上北」の信号から左の細い生活道路に入る。すぐに[船橋川]に突き当り、右に迂回して川向こうの東海道に合流する。合流地点には「八幡宮」の石碑、これは言って見れば「伏拝み」の石柱。再び向きを南に変えて生活道路に入る。ほどなく京阪電鉄の軌道に沿って歩くことになる。

正面に「牧野駅」が見えてきた。牧野駅周辺は旧街道が駅によって分断されているため、少し迷った。説明書もここは上手く表現出来ていないようだ。

牧野駅前商店会のアーチを左手に見て右折、「牧野さくら橋」を渡り、穂谷川に架かる「めいじばし」を渡って川の西側を南の方角に歩く。「防垣内橋」を左に見て進む。左側に「さがいまいけ公園」が現れる。

道は住宅街に入る。道の左側に門構えの灯籠があり、左の足元に「京都」右には「大阪」と彫られたこの道は「片埜神社」への参道に通じるという。「おおさか」の文字が大坂ではなく大阪となっているのは、時代的にそう古くはないと云う事か。暫く住宅街の中を歩いた後、大きな道に出た。ここは見覚えがある。そうだ、以前は何度も車で走った道、今は13号の府道だ。水島書房(今はない)や、よく来た「渚の湯」の少し京都寄りに出た。

「どん亭」という外食店があったので遅めながらお昼にした。ここで45分休憩。通り慣れた13号を南に歩く。「なぎさ高校」前を通る。磯島の信号辺りから左の細い道へー。住宅街に入りインターネット氏の曰く「ベージュ色の建物」の右側の道を歩く。このあたりは「三栗」と書いて「めくり」と読む地域。その「三栗」(三栗清丈)と表札のかかったお家があった。歴代この地の中心人物だったのだろう。

「天の川町1丁目」と電柱に貼ってある。「かささぎ橋」を渡ると枚方宿の東見付の標識があった。問屋役人「小野兵右衛門」宅の前を通る。おや?ここはひょっとして?と思う住宅街に入る。やはりそうだった。この道を真っ直ぐ行けばお馴染みのみずほ銀行へ通ずる道だ。ここが東海道57次の旧街道だったのだ。というのが私の偽らざる心境だった。まっすぐ歩き、車通りを横断して「宗左の辻」へ来る。ここが今日予定していた終着点だ。

ところでこの石碑の前で思わぬ人に出会った。「写真グループでお会いしたのでしたか?」と、ほぼ後期高齢者に達するように思える長身の男性。「私、村田ですが、どなたでしたか?」「私松島です」「ゴルフ?ウオーキング?学校?どこでご一緒だったのでした?」

話しているうちにお互いやっとわかった。私が担当していた京阪電車に努めておられた松島さんだ。先日もシンガポールに住んでいる知人親子や、息子の同級生で今東京に住んでいる親子、と、今年に入って珍しい出会いが続いている。

今日のウオーキングの最後の最後に懐かしい人に出会った。


東海道57次第5日目

枚方市駅~光善寺駅」  2824() 

枚方市駅14:10~光善寺駅16:00  歩数13,360

スタートは遅かったが枚方市駅から次の宿「守口」方向に歩き出した。

宗左の辻の石碑をスタートしたのは午後210分。前回は此処で松崎さんという人に20数年ぶりに出会った。通り慣れた岡本町通り、旧街道であるとは知っていたが、ここが東海道57次の旧街道だと知ったのはずいぶん後になってからのことだ。腰もだいぶ良くなってきた。今月半ばには東海道5323日の予定もある。少しずつ体を慣らしておくことも必要だと思い、57次を今日歩くことにした。

「塩熊本店(くらわんかギャラリー)」を過ぎると右手に「三矢公園」、ここが枚方宿本陣跡だ。その向かいの「塩熊店」は、先ほど通った本店のいわば支店だ。歩きなれた道を西へ向かい、石碑表示のある角を右へ入ると「枚方浜跡」に出た。昔の枚方港だ。このあたり、くらわんか船がさぞ沢山出入りして賑わっていたのだろう。ここは私にとっては今日初めて知った場所だ。

「鍵屋」の前を過ぎる。鍵屋は当時、社交の中心で大いに賑わったことだろう。つい最近まで、食事もでき、私もここで食事したことがある。多分15年以上前のことだったと思う。鍵屋から少し先に、枚方宿「西見付跡」の説明表示板があった。東見付は前回ウオーキングの時に通った。 さてこの辺りから私にとっては未知の領域になる。

小さな橋に出た。その下を細い川が流れており、川辺は人工的に整理されたプロムナードになって桜の木が植えられている。「枚方にもこんなところがあったのか!」というのが私の偽らざる実感。説明板には「水面回廊」と書かれている。自分の住いの近くにこんな場所があったのだ。桜の季節はさぞかし見事であろう。人工的に作られてはいるがまず楽しそうなところだ。

「水と歴史のふれあい広場」と書かれた石碑がある。急に声をかけられた。シルバーでこの公園の整理をしているという「荒江長寿さん」という74歳の大柄な男性。ファックスナンバーを聞き、私のメールアドレスを送ることにした。ホームページを見て頂けるという。

さらに南方向に川端を歩く。インターネット氏の言う「左へ曲がる」角が何処かわからず、一度行った道を引き返したりして少し時間をロスした。それでも元西高校あとの「伊加賀スポーツセンター」前を過ぎ、「伊加賀小学校」前を通りこの道が間違っていないことを確信した。

次の目標点「光善寺」は思ったより大きなお寺だった。光善寺駅はお寺の名前だと云う事は予ねて知ってはいたが駅からこんなに遠く離れているとは予想外だった。二百メートルほど先に「親鸞聖人 蓮如上人 御田地」という石碑が立っている。その石碑の横に蓮如上人が説法した時、腰を掛けたという「腰掛石」がある。

この日は少し先の樹齢700年の柿の木まで行ったが、今回は一応「御田地」の石碑までとすることにした。ここから京阪光善寺の駅までは少し距離があり数分かかる。スタートも午後遅く短い時間だったが、見所もそれなりにあり楽しい半日だった。

 



東海道57次第6日目

光善寺駅~守口」  2827()

光善寺駅11:30~守口駅15:35     歩数18,519

東高野街道は自宅近くの「郡津駅」を通り、東海道57次は隣町の枚方市駅を通る。

今日は光善寺駅から守口駅までの東海道57次を歩く。光善寺駅スタートは午前1130分。多分今まで一度も降りたことのないこの駅周辺が賑やかなのに驚いた。

まず前回歩き終わった「御田地」に向かう。ここから西に向かってスタート。樹齢700年以上と言われる柿の木を見て先に進む。

道は住宅街の中から堤防に出る。ここから先は淀川堤を歩くことになる。左に行政の建物や民家、右は広大な淀川べりに作られたスポーツグランド。
今日は日曜日で天気がいいので、どのグランドも競技が真っ盛り。

堤防の左側、川と反対側に「茨田堤」の石碑。堤防道の右側に面して、刻々と少なくなっていく大阪湾までの残り距離が表示されている。このあたりで大阪湾まで19㎞。舗装された堤防上にも大きく白ペンキで書かれている鳥飼大橋辺りでこの標識は「172㎞」になった

この先から東海道57次は堤防から左へ逸れる。降りてすぐの「庭窪レストセンター」前から「守口浄水場」の先を右に曲がる。[矢雲北公園]のあたりは住宅街だ。「時空の道・京街道」の石碑。「八雲北町老人憩いの家」前を通る。「やくも幼稚園」「八雲小学校」「大阪市立守口東高等学校」、そしてまた「時空の道」が、しかし今度は「時空の道・矢雲の道」の石碑がー。

「一里塚跡」の木製標識。守口から一里の標識だ。

また「明治天皇聖蹟」の石碑があった。明治天皇足跡碑は中山道でも東海道53次街道でもしばしばお目にかかった。「難宗寺」の壁際に(御行在所)などと彫られた大小4つの石碑が押し合って立っている。

しばらく歩くと「守口宿本陣跡」の木製表示。現地は今駐輪場になっている。そしてすぐ「八島」の信号に出る。住宅街に入る。

ここは秀吉が進めた「文禄堤」の道。このあたりの道に立つ電柱は竹で養生してある。家の軒先には「東海道57次・400年守口宿」の幟がー。「BUNROKU Tea Room」の和風喫茶店。このあたりは文禄堤にあやかって文禄匂がふんぷん。

モザイク模様のの緩やかな下り坂を降り切ると、目の前に京阪守口駅が現れた。今日のウオーキングはここまで。

 

 



東海道57次第7日目

守口~高麗橋」  2838()

守口駅11:30~高麗橋16:15     歩数17,934

東海道57次も今回が最後の行程になる。

守口から京橋までは、国道一号線の少しの距離を除いては初めて歩くコースだったので新鮮だった。

まず、先日街道と別れたポイントまで行って高麗橋に向かって歩き出した。目の前の橋が「本町橋」少し先に「森居橋」。民家の板壁に「京街道」の大きな文字。このあたりから先は未知のゾーンだ。わくわくする気持ちで先に進む。

しかしこの辺りで迷った。岡崎城下の27曲りほどスケールは大きくないが、ここの道路も又外敵の侵入を防ぐため曲尺手にしてあるのか。しかし何とか間違いなく進めたようだ。住宅街の中はすぐに通り越し、ほどなくして「京阪本通2」の信号を見て国道一号線に出た。車で何度となく通った道路だ。

1号線を南に向かい,内環を越え「京阪本通1」を過ぎ、「今市の信号」の手前に「いちご大福」の大きな幟を立て掛け、昔の下町でよく見かけたお店があった。おはぎ、赤飯、みたらし団子…。こんなお店は最近見かけなくなってしまった。寂しいことだ。

今市商店街のアーチを横目に見ながら「右都島本通」の分かれ道をそのまま真直ぐ行く。その先の1号線と別れる2差路の手前に「京かいどう」と彫られた石碑があった。この石碑はこのあともしばしば見かけることになる。この石碑の右側側面には「大阪城京橋口から5,4キロメートル」と彫られた文字がある。

東海道57次の西の起点は現在「高麗橋」であるが、その昔は「京橋口」であった。だからここにこの石碑があり、(完歩後に知ったことだが)京橋口から先にはほとんど説明表示物がない。

1号線と別れた後は,今は少なくなった大阪の下町を歩くことになる。「東洋学園高等専修学校」の前を通る。また、石に貼られた京街道の銅板があった。そして先ほど見たと同じ「京かいどう」の石碑。昭和60年建立と側面に文字が見える。

阪神高速のガード下に架かる古市橋を渡る。渡り終えるとすぐ左に黄色い派手な建物が現れる。少し先で163号線と1号線が交差する「関目5丁目」に出た。この交差点を渡りファミリーマートの前に来た。

実はここから先で迷った。地図とインターネット氏の紀行文を合わせ見て、正しい道を探そうとするのだが自信が持てなかった。
結果的には間違いなく旧東海道に入れたのだが、「関目神社」とその近くにある「明治天皇聖躅」の石碑と旧東海道の位置関係がわからないまま先に進んだ。この道は間違っていないと云う事は、すぐに現れた石碑「京街道」でわかった。ただこれ以降の石碑の文字は「京街道」と漢字表記になっている。最近作られたものだということは明らかだ。側面の文字は「京橋口から3,3キロメートル」から、続いて「2,5キロメートル」に変わる。

道はそのまま広い都島通りに合流。少し異様な雰囲気の匂う歩道にアーケードがある「国道筋商店街」を通り抜けるとすぐ右の道に入る。

つぎに大きな通りに出たのは「野江4丁目」の交差点近くだった。ここで本年に入って6回目、または6人目の偶然の出会いがあった。逆コースを歩いてきた5人グループに出会った。そのグループの最後部に居た一人が「あ!あんたを知っている!」と、素っ頓狂な声を上げた。(私もあんたを知っている)。こんな出会いが今年に入って6回目だ。結局何故かこの人は名前を名乗らなかった。しかし私もこの人には強い懐かしみを感じる。どこかで、何かで接点があったことは確かだ。出会いの不思議は続くものなのだろうか。

この交差点近くから左へ細い道に入るのだが、その道がどれなのかここでも迷った。インターネット氏の文によれば「平耳鼻科を左折」と書かれているが13年ほど前にはあった「平耳鼻科」は、今はないようだ。近くのお店2軒で尋ねたが、時は過ぎ時代は変わっている。平耳鼻科を知っている人にはついに会えなかった

車の走る通りを右に外れ古くて狭い住宅街を進む。インターネット氏は「北原歯科の前を通り…」と書いている。記述の通り南へ進んだが、北原歯科は見つからない。

「中三商店街」のアーケードの下を進み商店街に入った。狭い道の左に「ビリケン像」があった。そして次に車の走る道路のガード下に出てびっくりした。ここはかってはほとんど毎日近づいていたいわば私の仕事場ではないか。「京橋」今歩いてきた道はこの場所に繋がっていたのか!

こから、本来の東海道は、の前の京阪モールの建物に阻まれて途絶えているという。やむなく京阪モールビルの北側、京阪電車の高架下北側に沿って西へ向かう。300メートルほど先の信号を左折すれば片町の交差点だ。ここで右折する道が本来の京街道らしい。西へ真っ直ぐに歩く。左側のビル並木が途絶えた隙間に大きく大阪城が見えた。「京橋魚市場跡」の比較的新しい石碑のあるところで左折する。ここに「京橋川魚市場跡」の説明ボードが立っている。ここから渡る橋が「京橋」なのだ。

川の中ほどから左手、東方を見るとOMPのクリスタルビルなど高層建築が威圧するように迫ってくる。橋を渡りすぐ右折。細い道を歩くと右手には「日本経済新聞社ビル」。

京阪東口信号を渡り「大阪医科歯科病院」のビルを半周廻って西へ歩く。天満橋の賑やかな信号を西に渡りそのまま真っ直ぐ進むと、左手の「永田屋」(昆布店)の店先に「八軒家船着場の跡」の背の低い石碑がある。ここが熊野古道の起点だ。此処へ船で到着して上陸し、熊野に向かって歩き出す。長い厳しい街道のスタート地点だ。

次の信号灯の下には「熊野かいどう」の銅板説明がある。説明文の左には簡単な地図まで描かれている。「エル・おおさか 府立労働センター」ビルを過ぎ、松屋町筋を渡る。この松屋町筋に架かっているのが「天神橋」。大林ビルの前を過ぎると目の前に現れたのが「今橋」。橋の手前を左に曲がる。100㍍先の右手に見えるのが、東海道57次の西の起点「高麗橋」、私が歩いた東海道57次の最終地点だ。

57次行脚と並行して、日本橋から歩いている東海道53次は今、熱田神宮のある「宮宿」に到達している。「宮宿」から「桑名宿」への渡し舟「七里の渡し」は、今は無くなっているので、来月、[桑名宿]から四日市方向に向かって歩く予定。

これで東海道57次は、53次より一足早く完歩ということになる。