東・西高野街道を行く

  中山道を歩き終わって次の東海道行脚の前に、結果的には二つの街道「伊勢本街道」と「東西高野街道」を併行して歩くことになった。
 
 高野街道は、石清水八幡から河内長野までの59,6㎞を「東高野街道」、堺から河内長野までの18,1㎞は、「西高野街道」と呼ばれている。
 両道は河内長野で合流し、その後、高野山(奥ノ院)までは38,9kmとなっている。
 特に「九度山」からの18㎞は「町石道(ちょういしみち)」と呼ばれ、九度山の慈尊院裏手の「1里石」から約100m毎に「2里石…3里石…180里石」と石碑が建っていて、高野山「壇上伽藍・金堂」前の1里石まで続く。
 
 この高野街道歩きも、堺から始まる西高野街道と河内長野以降の高野山までは、仲間と二人連れになったが、当初、石清水八幡から河内長野までの、いわゆる「東高野街道」は一人歩きであった。
 
後半の「西高野街道」(河内長野)以降は、中山道の同行者西田博一氏と同行した。

 以下は、8日間8回にわたった「高野街道歩行記」である。

 

      東高野街道第1 「八幡町~郡津」
                     
25218及び2536 

        第1日目(2月18日)終日雨  第2日目(3月6日)快晴                       
 
    (2日目)所要時間3時間 歩数 19825

  今日は終日雨。それでも頑張って決行した。

しかし、さすがにきつかった。寒さで手の指がかじかんで冷たい。靴下がびしょびしょ。

ランチタイムに選んだ洞ヶ峠の茶店で、石油ストーブにかぶさるように衣類を乾かした。

初めて試みた東高野街道は前述のように雨の一日になった。写真も写せなかった。

という訳で2週間ほど後の、36日快晴の日を選んで再度決行することにした。

 
 3月6日快晴(前回雨のため再歩行)

前回と同じく京阪電車「八幡市駅」からスタート。

駅前ロータリーの一角に「トーマス・エジソン」の胸像がある。「1880年八幡の竹とエジソンの二つの素質が結びついて電球の輝きが人類のものとなった‥」と説明されている。実は何度かこの駅に降り立ったことがあるのにこの像には気付かなかった。

 次の角を曲がると目の前に大きな鳥居、石清水八幡宮である。

「石清水清き流れの絶えせねば やどる月さへ隈なかりけり」

放生川に架かる安居橋のたもとにある歌碑で、文治元年(1885)9月に催された石清水八幡宮の歌合せにおいて、能因法師が詠んだもので千載和歌集に収められている詩だという。

この辺りはお寺が多い土地柄だ。東高野街道の標識も美しく整えらえている。きれいなお菓子屋さんの裏あたりに「頼風塚」がある。平安時代の初期、小野頼風の妻が夫の心変わりを悲しんで川にその身を投げて死んだ故事にまつわる話。「謡曲女郎花」はこの故事にちなんでいる。八幡市立図書館、八幡市立小学校、同じく幼稚園、「右宇治近道」の石柱、「神原」の信号を越えると「亀屋芳邦」の看板が掛かったお菓子屋さん、志水公民館、正法寺、安心院、京街道の石碑、とにかくこの街道には次々石碑が表れる。

「松花堂庭園」にやってきた。ここには料亭「吉兆」もある。

このあたりは吉井勇が3年間ほど暮らした地だという。

入園料100円を払って中に入る。美しいお庭だ。「女郎塚」があった。先程通り過ぎた「頼風塚」に予告表示があった「女郎花塚」だ。

「月夜田」の信号をそのまま南に向かって歩く。「右高野街道」の古い石柱。中山道のときも同じだったがこんな道路標識があると道を間違えていないと判りほっとする。もっとも中山道より単純な道であるがー。

左手のお好み焼きやさんの手前を右に曲がる。ここは間違いやすいので注意。国道一号線の手前にもう50年前から営業されている「峠の茶屋」がある。格好の休憩場所だ。ちょうどお昼時。当然うどんのランチにし、名物「ぼたもち」にぱくつく。これは少し食べすぎだ。

昼休みをとった後、再び茶屋の裏道から歩き出す。すこし歩いたところで国道一号線に合流。目の前に大きな建物。映画館などが入っている。この建物の中に食堂があるのだが、その名前が「高野食堂」。この命名者は歴史をよく知っている人のようだ。この建物のあったところに昔は東高野街道が走っていたに違いない。

道はここから車がビュンビュン走る国道の歩道を歩くことになり、はっきり言って面白くないウオーキングになる。右手に自動車学校が見えたら穂谷川橋の信号。次の出屋敷の信号手前を左に入る。


ここが東高野街道の旧道。まさに街道らしい道に入ってほっとする。細い通りに面する「円通寺」を過ぎ枚方総合体育館を右に見て進めば「四辻」の交差点。
大きな敷地を誇る「水道局」を過ぎ、「出鼻橋」の信号から左へ細い道を下る。田んぼの真中の道がすこし続き集落に入れば、そこが今日の終着予定点郡津だ。。











       東高野街道第2 「郡津駅(交野市)忍ケ丘]
                   25
213    晴
                           所要時間3時間 歩数 10500 

今日は我が住まいの最寄り駅「郡津駅」からスタートした。

  梅ヶ枝交差点の信号そばにある「東高野街道」の説明ボードを見て、そのまま西に向かい、登り坂をしばらく歩いて新天野川橋を渡る。渡りきったら直ぐに左折、そのまま住宅街の中を突っ切ると広い通りに出る。「私部西4北」の信号を向い側へ渡ってから左折、すぐに黄色い鉄柵に突き当たり、右斜めの細い道路に入る。道路右側に「本尊掛松遺跡」のモニュメントがある。

 「コーナン」交野店の入口近くに、「本尊掛け松遺跡」の背の低い石碑が確認できる。文字の下の部分すら見えない1mほどの高さの石碑だ。        ここを左へ

 そのまま南へ歩き直ぐに第2京阪道を向かい側へ渡る。宅急便のクロネコヤマトの前を過ぎて、斜めに右へ続く細い道に入る。これが東高野街道だ。
 そのまま道なりに歩きやや大きい通りを真っ直ぐ横切る。畑道の右側に「一里塚石碑」を見る。
 更にJR片町線のガード手前を左に曲がって直ぐ「中村中尉殉職の鎮魂碑」が小さな貝塚に囲まれてある。終戦直前の昭和207月、このあたりの上空で米国機と空中戦の末、撃墜された中村中尉の搭乗戦闘機の残骸が、第2京阪道路を作るため造成作業が行われた時に見つかり、発掘された。

中尉の鎮魂碑がここに建てられ、愛機の残骸は今、交野市のプールがある「いきいきランド」に展示されている

JR星田駅で飲み物を買って東寝屋川駅の方向に歩く。

駅に接するスーパ「ダイエー」の手前、民家の通りにそっと隠れるようにして、「打ち上げの弘法井戸」を見つけた。運よく信号で停まった郵便夫さんが知っていて教えてくれたが、そうでなければこんな場所を見つけるのは至難の業だ。                                      中村中尉墓標

「イズミヤ」の南側の小道へ入る。「東ならいせみち」と彫られた石碑。こんな石碑があると、いかにもここが旧道だということを感じる。

イズミヤに隣接するJR東寝屋川駅前を南下する。「特別養護老人ホームいちょう園」「社会福祉法人香会」を過ぎる。ここからJR忍ケ駅までの街道筋には「鉢かづき姫」の石像とともに道路標識が何ヶ所か建っている。
 「二月堂灯籠」の次には「13仏板碑(いたび)」の正縁寺を通る。

 旧道らしき風情のある道なのだが残念ながら車の通行も激しく、車を避け、道際によけながら歩かねばならないのが不愉快。

そして忍ヶ丘駅に到着した。今日のウオーキング予定はここまで。

                  

 2月堂灯篭




       
                       

 

東高野街道第3 「忍ケ丘(寝屋川市)~野崎(大東市)25214 

                                    残暑少し 晴 

   所要時間2時間 歩数 10500

今日の特記事項は野崎駅における小学生飛び込み自殺事件だろう。

今日の終着点に予定していたJR野崎駅に到着したのは、午後415分頃だった。

本日予定した区間を歩き終わり、やれやれという気分の時、野崎駅前に[サイフォンで沸かす喫茶店]を見つけたので入り、コーヒを注文した。ホットコーヒのカップに口をつけようとしたとき、急に周りが騒然とする雰囲気を感じた。窓から外の空気が尋常ではなくなった。

救急車のけたたましいサイレン、加えて白バイのサイレン、消防車のけたたましい鐘、見る間に56台の緊急車が駅の前に集まって来た。だんだんわかってきたことは小学校4年生の男の子がJRの電車にプラットフォームから飛び込んだのだという。

なんと恐ろしいことだ。結果的にこの事故のため私はこの喫茶店に1時間以上釘づけされることになった。

さて今日は京阪郡津駅を13:52発私市行に乗った。河内磐船でJRに乗り換え忍ヶ丘駅に着いたのは14時過ぎ。

歩き出したのは1410分。長男がこの駅近くにあった高校に通っていたころに時々車で通った道を南へ向かう。

 

歩き出してすぐ、「高野橋側道橋」という表示がついている小さな橋を渡った。間違いなくこの通りは「東高野街道」だと確認かくにんした。化四條畷市教育委員会の名になる「四條畷市歴史散策道」の掲示板を見る。

「四條畷市市民総合センター」を過ぎ「JA」の建物の前に来た。

この角を右折。交番所を左折。後日何かで読んだが、この交番は現在の四條畷警察の発祥の地だという。

建て込んだ住宅街の真ん中に「歴史民俗資料館」の標示あり。

最初のチェックポイントと決めていた「和田賢秀の墓」。通りに面した家から出てきた40歳がらみの女性に「和田賢秀のお墓はどちらですか?」と尋ねたら、その女の人はすぐ後ろを振り返って母親らしき人に私の質問をそのまま預けた。「あそこのバス停の前ですよ」。

なんとその場所からちょうど100mほど先、その人の出てきた同じ側にある大きな森に囲まれたところがその場所だった。

四條畷神社に通ずる交差点に差し掛かった。

左側に大きな鳥居が建つ。よく見ると遙か1㎞ほど奥、山の手側にも鳥居が見える。今日はお詣りせずそのままそのまま街道をすすむ。「飯盛山荘入口」の立看板。「北条神社参道」の標識、をいずれも左手に見ながら。

チェックポイントとして考えていた「瑞玄寺」は見落としたが、道路の左側に「十念寺」を見つけて安心。この寺院は小楠公一族の菩提寺となっている。

「中念寺」を過ぎるとほどなくして「野崎観音」への参道四つ辻へと差し掛かる。

野崎参りの歌でも知られているこの野崎観音は正式には「野崎観音慈眼禅寺」という。

 

今日のウオーキングは此処までとして、久し振りなので野崎観音にお参りすることにした。

 

 
 

        東高野街道第4 「野崎(大東市)~瓢箪山」25221 

                                      曇り 雪空 寒い 

   所要時間2時間 歩数 14401

先日列車への投身自殺事件で1時間以上足止めを食った野崎駅からスタート。

駅前をスタートしたのは午後2時。直ぐに東へ向かって歩き始める。野崎観音参道入り口の掲示のある四ツ辻を右折すれば東高野街道だ。

 「戸森山専應寺」の石柱を左に見る。次に目に入ったのは「瀧間山不動尊」への道標となる石柱。

「大東市立市民体育館」前を過ぎる。つづいて「四条中学校」。今夏の全国高等学校野球大会の優勝校である大阪桐蔭高校が道の左手にある。ご存知、阪神タイガースドラフト一位の藤浪投手の出身校だ。「祝選抜高等学校野球大会出場」の大きな垂れ幕が校舎の壁いっぱいに掲げられている。

ほぼ真向かいといっていい位置に「大阪産業大学」。この辺りはまさに学園通りと言ってもいいようだ。

「中垣内」の信号を過ぎる。「象印魔法瓶株式会社」の大坂工場もここにあったのか。

「善根寺」の信号を越えてほどなく「八紘一宇」と書かれた小さな石柱を見た。「八紘一宇」。戦時中まだ小学生だった頃この言葉を良く耳にしたように思う。意味はわからなかったが国民をかり立てる軍部の標語のようなイメージが残っている。今、意味の出所を調べてみても「天下を一つの家のようにすること」などというわけのわからない解説。はっきり言って理解し難い死語だ。

少し先に「金毘羅大権現」とほられた石作の常夜灯が建っている。

「石磯平田石材店」と彫られた大きな広告石柱は嫌でも目に入る。

「池の端」の信号を過ぎ「東大阪市立孔舎衞小学校」前を通る。この字が読めない。 あとで苦労して調べたら「くさか」と読むらしい。実は「衛」という字も書かれていたのはこの文字ではない。「衞」によく似ているがそんな字はパソコンにはないので「衛」で誤魔化しておいた。 

この辺りまで来ると車の往来も少なくいかにも旧街道の名残という雰囲気は漂ってくる。

それに相応しい「大峰登山百二度供養塔」という石柱に出会った。

「芝太鼓蔵」と書かれた鎧戸を左手に見る。祭太鼓が仕舞われてあるのだろう。

「石切神社参道道」の入り口までやって来た。このすぐ向かい近くに「石切藤地蔵尊」があり二人のご婦人がその名が示す藤棚の下で熱心に地蔵尊のお手入れをしていた。

「箱殿東」の信号を渡れば程なくして「枚岡中学校」。すぐに「官幣大社枚岡神社」の大鳥居。そして喜里川町南」の信号を過ぎればあとは近鉄瓢箪山駅に通じる商店街の北の入り口だ。

ほっとする私の目の前に喫茶「Bell Town」があったので躊躇なく入る。野崎駅をスタートして以来、一度も休んでいなかった事に気がついた。

短い商店街を抜けるとそこは瓢箪山駅。

今日のウオーキング予定はここまで。

この駅が次回のスターティングポイントになる。

 


        

            東高野街道第5 「瓢箪山~安堂」 25225 

                                           曇り

                               所要時間3時間 歩数 18881 

今日は体育デー。午前中東香里GCへ打球練習。午後13分郡津駅発で瓢箪山駅へ向かう。

ここ数日寒い日が続くが、今日は寒さは少し和らいでいる。

「河内磐船駅」からJR片町線で「放出」、「放出」からおおさか東線で「JR河内永和駅」、ここで近鉄奈良線に乗り換え「瓢箪山駅」と、何度も電車を乗り継ぎ1時間少しかけて瓢箪山駅に到着。

短い商店街を抜けて南の方角へ歩み出す。駅近くの「みずほ銀行」に入る。

未だ商店街も抜けきらぬうちに、日本3大稲荷「瓢箪山稲荷神社」を左手に見る。
 ただインターネットで調べた所では日本の三大稲荷に諸説あって、5つほどの候補が挙げられるがその5つにはここの稲荷神社は入っていない。
 諸説の一部を紹介すると「伏見稲荷(京都)」「豊川稲荷(愛知)」「祐徳稲荷(佐賀)」「笠間稲荷(茨城)」「最上稲荷(岡山)」等が挙げられているが「瓢箪山稲荷」の名は出てこない。

稲荷神社にはどこにでもある赤い鳥居を見て先に進む。

「縄手小学校前」の信号を過ぎれば「安堂8km」の信号標識が目に入る。

「東大阪市立埋蔵文化財センター・発掘ふれあい館」は右手の丸いドーム型の建物だ。

「六万寺東」の信号を過ぎれば「小楠公銅像」と彫られた縦長の石柱標識があった。「横小路4丁目」から「箕語川」の信号を過ぎれば「八尾市」に入る。生まれてこの方大坂に住んでいる私であるが、八尾市がこんな近いところにあるとは思ってもいなかった。
「松の馬場」と銘うった席石の標識あり。「寛政元年畠山政長と義就とが争いの時義就はこの地に出陣したとある。

さて、「八尾市立高安中学校」の校門前を過ぎ、「千塚東」の信号を過ぎれば、「旧国道170号・無名橋」と書かれている2mもない川幅に掛かる橋に差し掛かる。
すぐ近くに「服部川」の信号があるので、この川とも言えぬ小さな川の名は「服部川」なんだろう。

「安堂5km」の信号に差し掛かる。「天理教高安」の立派な建物を過ぎる。

「すぐ信貴山毘沙門天」への表示石柱あり。ここに書かれた「すぐ」は「もうすぐ」ではなく「まっすぐ」の意味だと以前古文化同好会のメンバーに教えてもらった。「左元善光寺」の石柱。はて「善光寺とは?」

次に見たのは「河内二宮恩智神社」の大鳥居。

直ぐ先に良酒宣言・地酒・酒寅」と大きく書かれたのれんのお店を過ぎる。この先に「恩地左近之舊跡」と彫られた石柱を見た。先程は「恩智」ここは「恩地」。少し研究の要ありそうだ。

「平野」の信号を過ぎてやや歩けば「鐸比古神社」の大きな石造の鳥居の前に差し掛かった。

「太平寺」の信号で三叉路になる。別れ道角に「地蔵尊」がある。右の方角
に進むと「安堂駅」は眼の前にあった。 

          

東高野街道第6 「安堂~富田林」26310 

                      晴れ 所要時間3時間30分 歩数 19286

 

ほぼ1年前の25425日にこのルートは一度歩いている。

ただその日,SDカードをカメラに収め忘れたまま現地に来てしまった。辺りでSDカードの販売店を探したが見つからなかった。動画は写す事が出来たがこの区間のスチルがないのはどうも気懸りで落ち着かなかったので、1年近く経ってから再トライすることにした。

その日は、26310日月曜日だった。 

ところがまたしてもミスを仕出かしてしまった。安堂駅は近鉄奈良線上にある駅なのに、奈良線の始発駅である近鉄上六駅に行かず、近鉄天王寺駅に行ってしまった。駅員に糾され上六駅にまで戻ってスタートのし直しだった。(実はここでもう一度ミスとも言えぬ勘違いを仕出かしていた)。わざわざ上六まで戻らなくても天王寺駅から柏原駅まで行けば安堂駅の近くまで行けたのだ。現に前回はそのルートで行っていたのだ。そのため今回上六~安堂駅まで行き安堂駅の改札口を出た時、前回記憶していた駅周辺の風景がまったく違っていたので面食らった。

しかし大和川に架かる橋は必渡行なので橋に向かって歩き出した。

歩行者専用橋の「新大和川橋」を渡る。

渡り切った処を左折。暫くは大和川を左に見ながら歩く。

やや行くと右手に「給食センター」の工場があり通り過ぎた角を右折。近鉄電車の踏切を越えて突き当りが「国府八幡神社」。ここを左へ曲がる。

蓮休寺の門前を過ぎる。やや行くと、「東高野街道」「史跡国分遺跡」「近鉄土師ノ里駅」などが書かれた表示板。「道明寺一丁目16」の金属表示板がブロック塀に張り付けてある。

少し先の、道から少し入り組んだところに「道明寺」があった。

すぐ目の前の電柱に「東高野街道」の花びら型表示板。「誉田八幡宮1,0㎞」「応神天皇陵0,7㎞」の文字も読める。古市小学校の高い塀に沿って歩き続ける。

 「御祭神応神天皇・神功皇后」「安産霊跡」などの文字を見ながら先へ進む。古くなって読みづらい石碑が二つ。「右大峯山」「富田林長野方面」「藤井寺大阪方面」などと読めるが、文字の示す方向が間違っているのではないかと疑う。

 常夜灯を大きくしたようなこの塔は何というのだろう。これも常夜灯なのかしら?そんな塔が建つ車通りと交差する四つ辻に出た。「金田寺」の門前を過ぎ、「伊岐宮白鳥神社」の鳥居前を通り過ぎる。

また「左大和路」の石碑。大きな梅の木が花を溢れんばかりにつけているので写真を一枚。

また踏切を越えた。ここからほんの少し先で車の往来の激しい道路に出てハタ!と迷ってしまった。前回此処へ来た時もここで混乱した。すぐ近くにあったスタンドを兼ねた自動車店のおじさんに尋ねたのだった。地図ではこのポイントでT字路にはなっていない。この辺りの道は真っ直ぐになっている。今回もまた混乱したが左と決めて歩き出した。前回もてっきり右だと思っていたのをおじさんが左だというので不安ながら左へ行ったことを思い出した。

 「すぎわけ歯科」の看板が見えた。何故私の記憶はこんなに不鮮明なのだろう。車通りを歯科医の横から左へ入る細い道がある。街道歩きの経験からこのような道が旧街道であると判断するのに何故か今回は私の中にインプットされていない。しかし結果的にはこのルートが正解であった。「高尾神社」の前を過ぎる。「古市六丁目」のブリキ製の看板を見る。正面に見えてきたのは「阪奈南道路」の高架。「水守」と書かれた看板のある信号を渡る。

この辺りから道は退屈だがそれらしき家並みに挟まれた如何にも旧街道らしき雰囲気になる。しかしすぐにまた国道に出た。「貴志南」の交差点。左に見える街道らしき細い道に入るか、歩道こそあるが車の往来の激しい国道を歩くか、一瞬迷ったが国道の方にした。結果的にはこれが正解だったようだ。

確か前回此処へ来た時は、左の方角に進み川の土手に突き当り大きく遠回りする結果になって時間とエネルギーを大きくロスした挙句この国道に戻ってきたことを想い出した。

 さて次の目標物は[バッティングセンター]

「桜井」の信号を過ぎると「中野町3丁目」の信号。ここがバッティングセンターのある交差点。今度は迷わず左の道に進む。

ここからはまさに「旧街道でございます」と言わんばかりの、人家の間を行くゆったりとした街道筋だ。

「新堂幼稚園」を過ぎ名前のわからない交差点を渡ると「花仙」と書かれた看板が目に入る。ここが富田林「寺内町」の北入口になる。

前回カードを忘れたため撮れなかった「安堂・富田林」間の写真を今日100枚ほど撮った。

今回は、前回より所要時間で約一時間、歩数も6000歩ほど短縮できた。

   

   





        
          東高野街道第
7 「富田林~河内長野」 2552 晴                        

所要時間3時間30分 歩数 20572

遂に東高野街道は本日が最終行程になった。

中山道と比較すれば十分の一の行程だが7回で踏破することになる。しかし実際には第1行程の八幡~郡津は初日が大雨のため撮影できなかったので日を改めてカメラ撮影のために歩いたし、郡津~忍ヶ丘間も最初歩いたルートが間違っていたので、再度歩き直した。近辺だからこんな修正が出来たのである。

さて今日は郡津駅を948分に乗った。富田林には1115分頃到着。直ちに寺内町の北東部の説明看板のある広場まで行きここからスタートした。が、昼近いのでお腹が減ったので先ず例の蕎麦屋「八町茶屋」へ立ち寄ってお昼のそばと赤ネコもちを食べた。一昨日も女房と来た店だ。  

ここから説明書に丹念にしたがって歩いた。東高野街道はこの辺りでは寺内町の中をジグザグに通っている。向井田坂を下りる、と書いてあるがこれがまた細い道でよほど注意していないと見落とす。

(実はこの時点で大いに話題になるシーンが現出していたのだ。向井田坂を下りると説明書には書いてあるがその向井田坂の表示を見つけたのはいいとして、坂道というのはちょっとした短い下り道なのだ。

 こんな外れた道でいいのだろうか。不安になって地図を何度も眺めていた時、ま横をNHKの火野正平の「日本縦断こころ旅」のロケ隊一行の自転車6台が掠め去ったのだった。その時は全く気がつかなかった。あの静かな人っ気の無い寺内町の一角で6台の自転車が自分の身体を掠めるように走り去ったのに全く意識していなかった。振り返って思い起こしてみてもその時自転車が自分の体すれすれにに走り去った記憶は全くない。なんと無神経な人間なのだろう。

5日ほど後、放送された番組を観ていた女房が「あれ?パパ出てる」と言ったので吃驚した。また片岡さんがわざわざテレビ画面をストップして写真に焼いてくれていた。

(犬も歩けば棒に当たる。爺も歩けば取材班に当たる)

富田林高校の東側を西の方向に進む。ここから309号に出るのだが、1kmほどの道で何処かで細い道に入るべしだったのにその道を見落としたようだ。チェックポイントの養楽寺を既に通り越しているようなので、別の道を通ってこの寺まで少し戻ることにした。 金比羅灯篭など説明書にあるモニュメントは見つけられなかった。

南甲田というところを西に進む。前にも通ったことのある近鉄「川西駅」のガード下を西の方角にくぐる。
「錦織神社」前に差しかかる。「当社は、元錦織、川西村の地域の鎮守社である」と説明されている。「記念碑」を過ぎると「2中前」の信号に差し掛かる。本来ならこの表示は「二中前」ではなかろうか。「2」に意味があるのだろうか。

 「新家東」の信号を通る。「霊法会富田林講堂」と書かれた大きな建物前を通過。「甘山南」の信号に「⇒錦織」と書かれていたので思い切って東の方向に左折する。とかく旧道は山に近い側を通っていると思うからだ。
 「ROUTE202」の表示を見る。踏切を渡り「錦織(高橋)」と表示された信号を南の方に折れる。左手に(財)法人成研会「汐の宮温泉病院」の建物。しばらく行くと、道路の左側に「史跡東高野街道錦織一里塚」の立派な石柱の傍に少しうすはげた表示看板。

「河内長野市」に入る。歩いているのは国道170号らしい。ホテル「ここほれわんわん」の看板が余りにも大きく目立ちすぎる。直ぐ先に「とまりききみてとおれ」と書かれた近鉄線の小さな踏切を右に渡る。
 道は少し登りになる。ここから穏やかな住宅街に入る。道の左手にあった「元文三年の石灯篭」でしばらく休憩した。
 その後しばらく歩くとパッと開けたところに出た。下り坂が大きくカーブした角だった。実はここで道を考えたにも拘らず一度右へ登って間違えた。左の下り道に下りる。下りきった所に楽しそうにつくられたプラムナードがあったのでこの道を行くことにする。万一旧街道でなくてもそれ以上に値打ちがあるルートだと考えた。小さくカーブする道は疲れを忘れさせてくれた。

このプロムナードを抜けると遠くから女子高校生らしき二人組が歩いてきたので河内長野駅までの道を教えてもらった。ここで二人の間に私の興味を引いた会話が交わされた。「次の角を左に曲がってずーと行けば駅です」すかさずもう一人のやや大柄な方が「あんた。はっきりいわないとー。ずーとってどういうこと?」「ずーと歩いていくこと」「それではわからないじゃない。その次の角を右に曲がると言わないと」。
 その通りである。私も確認しようと思ったことをその相方の方が訊ねてくれた」。中山道など街道を歩いて数え切れないほど人様に道をたずてきたが、尋ねられる側に立っても相手に道を教えることは難しい。説明の仕方が難しいのだ。自分の中のイメージと相手の頭の中に順々に湧き出てくるイメージが同じ平面上にあるかどうかわからない。早い話し、向かい合って話しているとすれば、一人の左側は向かい合った相手からは右側になる。聞くほうもその辺りを十分理解しながら咀嚼することだ。

さて、ガード下の菊水町の信号の角まで直ぐだった。そこを右に曲がると右手に駅が見えてきた。

河内長野の駅は南海電鉄と近鉄が隣り合っている。お腹が減った。駅前のビルのマクドナルドの店頭で女性が呼び込みをやっていた。丁度いいチャンスだ。かねて一度、丸いパンの間に色々挟んであるあのハンバーガを食べて見たいと思っていたのだ。

帰途はあまり乗る機会の無い南海電車を選んだ。

東高野街道はここ河内長野で踏破したことになる。次は西高野街道だが、合流点である河内長野からではなく西高野街道の起点である堺から歩くことにしたい。