東海道第1日目

   「日本橋~品川宿(青物横町駅)」「品川宿~神奈川宿」

261016()17()            
      初日 日本橋1245発。品川宿(青物横丁駅)着 1705分 

      歩数24179

   2日目 品川宿(青物横丁駅)835発~神奈川宿(横浜駅)着1705

      歩数39890歩   

京都三条大橋から歩き出した中山道を、昨年1152年半かけて無事お江戸日本橋に到達した直後から、次回はその日本橋から京都三条大橋に向かって東海道を歩いて帰りたいと思っていた。そしてこの秋、甥の小西恵二の賛同があって1016日、ついにお江戸日本橋から西に向かって歩き出しました。歩行計画は中山道の時と同様、1ヶ月に1回または2ヶ月に3回のペースを考えています。

          
            この日車中から富士山の眺めは抜群          まずは記念写真 日本橋

初日 日本橋1245発~青物横丁駅(品川宿)1705分 

261016() 快晴

 

816分郡津駅発。京都駅から「ひかり514号」に乗り1211分東京駅着。天候に恵まれてひかりの車内から見事な富士山を見る事が出来た。昼食は車内で済ませておいたので、東京駅到着後すぐに日本橋に向かって歩き出した。

今回もまた「東海道貯金」をすることにしたが、東京駅から日本橋へ行くまでに郵便局があったので早速千円貯金。

スタート地点の日本橋上でまず二人で記念撮影し、おもむろにスタート。

歩き始めはいわゆる「銀ブラ」だ。

昔、仕事で使った銀座通りを「変化が激しいな」と思いながら普通のペースで歩く。そして新橋を過ぎたあたりから「お馴染ではない道」に変わって来た。

新橋5丁目、浜松町1丁目、大門を過ぎ今回最初の寄り道は芝の「増上寺」。

浄土宗の大本山だ。「大殿」の大屋根越しに「東京タワー」がくっきりと突きあがっている。

4丁目を過ぎて江戸無血開城の西郷南洲と勝海舟の会見場となった地の「記念碑」前を通る。「田町駅右」の矢印看板、国道15号の表示看板のついた陸橋に「札の辻」と書かれてある。伊勢街道にもこれと同じ地名があった。

予定していた立ち寄りポイント「高輪大木戸跡」に来た。と言っても大木戸らしきものを彷彿させるものは何もなし、説明を読んで実物を想像するしかない。

次に立ち寄ったのは、今回の私にとってはメインスポットの「泉岳寺」だ。

今を去る72年前昭和17年の多分1月、太平洋戦争がはじまり、4月には私が小学校へ入学する年、両親とここへ来ている。47士のことは、その時初めて聞かされたのだと思う。懐かしかった。何一つ記憶の隅に引っかかってはいなかったけれど‐。

しばらく歩くと「京急品川駅」前に出た。先ほどから歩いている大通りは国道15号らしい。

「従是南 品川宿 地内」と書かれた縦長の3mほどの表示塔からいよいよ国道から左へ逸れて「旧東海道」に入る。


「北品川本通り商店会」の縦文字が電柱に張られている。「品海公園」と石に刻まれた文字の次に現れたのは「品川宿・川崎宿へ二里半 日本橋より二里」の縦文字の1メートル余の石柱。続いて表われた同型の石柱には「品川宿本陣跡」と書かれているがその足元にはカラーコーンが倒れ、自転車が乱雑に並べられている。本陣跡の有難味がどこにもない。次に過ぎた「聖蹟公園」の文字は読み辛い。

「東海道品川宿」と書かれた立派な縦標識。品川橋を渡り城南小学校を過ぎ、天妙国寺、諏方神社、東海道南品川の信号を過ぎ、京急「青物横丁」駅の前で今夜のホテル探しを始めた。ところが予想に反してホテルがどこも満室で、電話をかけたホテルは10軒にも及んだろうか。やっと蒲田駅近くの「チサンイン蒲田」と云うホテルに部屋が見つかったので、目の前の青物横丁駅から数駅先の蒲田駅まで電車に乗ることにした。夕飯はホテル近くの焼肉屋。

 

 2日目  品川宿(青物横丁駅)835発~神奈川宿(横浜駅)1705

261016() 快晴 歩数39890歩 

               

ホテル近くでモーニングを食べた後、再び京急「蒲田駅」まで歩き、昨日の終着点の「青物横丁駅」まで電車で戻る。

昨日、右折した「東海道南品川」の信号機を右に曲がり旧東海道に入る。

板垣退助のお墓があるという「品川寺」で探したがお墓は見当たらなかった。

「浜川橋」にやって来た。別名「涙橋」という。鈴ケ森刑場に送られる罪人との最後の別れの橋だったという。「鈴森中学校」を過ぎると鈴ヶ森刑場に差し掛かった。「泉岳寺」とともに今回の行脚で私が興味を持っていた場所の一つだ。

もし、ここが本当に刑場跡であるのなら、まぎれもなく昔は何とも言えぬ血なまぐさい凄惨な雰囲気を漂わせる場所であっただろう。

再び国道15号に入って歩く。「品川水族館」を通り「大森駅」の方向指示版の方角に歩く。「平和島駅」表示の前を過ぎる。この辺りで「日本橋から13㎞」の表示がある。「環七美原通り」の少し先に「一里塚」の屋根型表示あり。「横浜18㎞」「梅屋敷駅」「大田区総合体育館」の表示を見ながら歩を進める。

昨日泊ったホテル近くの「蒲田駅」「川」と第一京浜(ルート15)を過ぎる。「雑色駅」「東京都立六郷工科高等学校」と黙々と歩きふと気が付くと、小さな台車に溢れんばかりのビールの空き缶を積んだおじさんと共に歩いていた。このおじさんそれから何キロ我々と一緒だったろう。遠い所へ沢山の空き缶を運んで行く。生活のためだろうがご苦労さんそのものだ。

 

「六郷八幡宮」をすぎ「六郷大橋」を渡る。この辺り、昔は「渡し」場でさぞ賑わっただろう。橋の袂に「長十郎梨のふるさと」という縦長看板が置かれている。古くて疲れた看板には「史跡東海道川崎宿 六郷の渡し」と書かれている。明治に入るまで「渡し」はあったとだとも書かれている。

橋を越えたあたりに「旧東海道・右」の表示があった。もしこの表示を見落とせば大変なロスが生じていただろう。「東海道かわさき宿交流館」の前を通る。「増田屋」というお蕎麦屋さんを見つけたのでお昼を食べるために入った。

川崎宿「いさご通り」を通る。「川崎警察署東側入口」を右折。「川崎小学校」

を過ぎると「芭蕉句碑」があった。石に刻まれた句は「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」。

「八丁畷駅」前を過ぎる。ここからしばらくは「いちば」という名称がついている通りだ。「市場村一里塚」の大きな石碑があった。

「鶴見川橋」を渡った。「東海道鶴見橋」の背の高い標柱の下で15分間の小休止を取る。「馬上安全・寺尾稲荷道」と書かれているのが面白い。「車道安全・寺尾稲荷道」と落書きの添え書きをしたいものだ。

 

「鶴見東口駅前通り」の近くで元気そうなご夫婦に会う。私が東海道を歩いていると言うと奥さんの方が「58歳くらいですか?」。「78歳です」と云うと大げさに驚かれて「若々しいですね。第一、顔の艶が良い」としきりに感心される。そのくせ「旦那さんもお元気そうですね」と歳を訪ねると「昭和4年生まれ」とおっしゃる。写真で見る限りそんなお歳とはとても見えない。

お稲荷さんの前に「道分稲荷」と大木の切株の様なものの真ん中に書いてある。

「生麦事件発生現場」の看板に出会った。「文久2(1862)、島津家の侍が騎乗の外国人が下馬しなかったという理由で4人の外国人を殺傷した事件」で早川松山という人が描かれたという「絵」が添えられている。この位置から少し離れた場所に「生麦事件130年記念祭」(平成4821日)の碑がある。

この辺りの道の左側は「横浜環状北線」の大規模な工事が行われている。

キリンビアビレッジを過ぎた辺りから再び国道15号に合流。

 

「東神奈川2㎞」の標識。「LOTTERIA」のお店を見つけたので小休止することにする。「良泉寺」の前を通り過ぎ「洲崎大神」「普門寺」「京急神奈川駅」を通り過ぎ「青木橋」を渡れば「JR横浜駅」はすぐ目の前。

今日のウオーキングはここまでにした。


                 
                     東海道第2日(回)目

          「神奈川宿(横浜駅)~平塚宿(平塚駅)」26・10・31(金)~11・1(土)                             
            初日  神奈川宿(横浜駅)12:45発 戸塚宿 着 17時05分 
                                                                        歩数25300歩 
        2日目 戸塚宿8:35発~平塚宿(平塚駅)  着17時05分
                                                                        歩数39700歩 


 中山道は[宿]から「宿」へと歩いて行く感じなのに対し、東海道、とくに今歩いている東京圏から関東圏内の東海道は、「駅」から[駅]へ辿って歩くという感じである。
何時の間に「宿」へ入り、いつの間に[宿]から離れたのかはっきりしない。
中山道のように「宿」の西入口から入り、東のはずれから出ていく、というはっきりしたけじめがつけにくい。
歩行計画を立てる際にもA宿からB宿へという観念は捨てて、A駅からB駅へという観念で計画するほうが良いようだ。考えてみれば宿場本来の意味の「宿」が、大部分は山中の道を辿ることの多い中山道では、まさに宿のある「宿場」に泊らざるを得ないのに対し、東海道は生活道路を歩くので満員かどうかは別にして、街道のどこにでも「泊り場」はあるということである。中山道では「宿場」で泊らなければ眠る場所がない。

 さて東海道行脚第2回目。先日と同じ便「ひかり514号」に乗る。

 横浜駅で乗り換え「横浜駅」へ。お昼は車内で食べておいたのですぐ歩き出す。
青木橋を横目にその向かい側にある「本覚寺」へ。石段を登り切ったところに「史蹟アメリカ領事館跡」の石碑。ここは高台になっているので眼下に広がる横浜の町がひと目で見渡せる。本覚寺を出てからは少し登り坂,左手の如何にもそれらしき料亭「田中家」は開業が「文久3年」と書かれている。「かみだいばし」を渡り「浅間神社」を過ぎ八王子道との追分に差しかかる。

しばらく行くとインターネット氏も書いていた「朝早くから活気にあふれる市場通り」に差し掛かった。氏の言う通り、店は10軒あるかどうかという程度の規模だが確かに活気がある。アーチの文字は「松原商店街」。
「相鉄天王町駅」は下町らしく活気が感じられる町の中にある。
「旧帷子橋跡」。ここから1㎞で「保土ヶ谷駅」更に500m先に「本陣跡」。さらに500m先に行けば「一里塚跡」「上方見付跡」。

 さて旧帷子橋跡から、「大門通り」の信号、「普賢山香象院」を通り下町の商店街通りに入る。「問屋場跡」の標識を見、「保土ヶ谷税務署」を通り信号を渡ると「本陣跡」に出た。建物は立っているがこれは本陣跡に建てたもので、その建物自体古くなっており無人の様子。続いて「脇本陣(藤谷)跡」の縦表示板があったが、まさに[跡]を示しているだけだろう。その後先述した「一里塚跡」「上方見付跡」の屋根型看板があった。
この辺り車の往来が激しい、と思ったら国道1号線だ。そして少し先を斜め右に入ると旧東海道だった。
日蓮宗「樹源寺」があった。
先ほどから「歴史の道」という道標が道脇に適度に立てられている。旅の者にとってこれは有難い。次のチェックポイントは「境木地蔵尊」になる。

ここで小休止。そして、少し先からいよいよ[権太坂]に入る。
耳の遠いお爺さんが道を尋ねられたのに、聞き間違って「俺の名前は権太だ」と言ったのが名前の由来らしい。
 「権太坂」は、勾配はそうきつくないがだらだらと距離が結構ある。一旦平地になってまた登りを繰り返す。しかしそれほどきつくない。途中には「光陵高校」「境木小学校」「境木立場跡の標識」がある。中山道には[立場跡]がやたらにあったが東海道ではあまり見かけなかった。

山の道が多い中山道と違って東海道は、それも今歩いている辺りはいわば都会で「宿」の観念がない。いつ宿場に入っていつ出たのかはっきり認識できない。

 中山道のようにここから○○宿に入る。ここで出た。というメリハリがない。辛うじて「保土ヶ谷宿案内図」などという看板が立っているから「ここは保土ヶ谷宿なんだな」と感知するだけ。
この保土ヶ谷宿の「境木地蔵尊」で約15分の休憩をとった。ここから「焼餅坂」という名前とは何の関係も感じられない坂道ともいえぬ下り坂を行く。
この先の「品濃坂」というところで少し迷った。二人が右と左に分かれて探索した。右への道が正解だった。陸橋を渡って品濃町に入る。宿屋は近いようだがつるべ落としの秋の日は黄昏てわびしくなってきた。「五大夫橋」を渡り団地の横をすり抜けると彼方に今夜の宿所「モリヤ旅館」の建物が見えてきた。

         
      




 2日目 戸塚宿8:35発~平塚宿(平塚駅) 着17時05分  歩数39700歩

 きつくはないが今日は雨だ。宿屋から傘を広げて歩き出す。郵便局が見え
たがいずれにせよ今日は土曜日なので貯金は出来ない。

「開かずの踏切」らしき踏切にきた。ここは「戸塚駅」の近くなんだろう。「戸塚郵便局前」「戸塚小学校入口」の信号機を見て歩く。「澤邊本陣跡」は戸塚に二つあった本陣のうちの一つですと説明がある。「戸塚消防署前」から「八坂神社」前を通る。

この辺り(戸塚宿)は東海道の表示看板がしばしば目に入るので安心だ。「大坂松並木」の表示。また国道一号に入っているようだ。車の往来が激しいが道の脇には松の木が並んでいる。これが如何にも旧街道の雰囲気を醸し出し感じが出ていてよい。

「日本橋から46㎞」の表示に出会う。松塚の自宅から京都の家を過ぎ岩倉辺りまでの距離なんだなあ。「原宿一里塚跡」の掲示。(あの原宿ではない)。「浅間神社」を過ぎると「小田原37㎞・藤沢4㎞」の交通標識。更に「第9回湘南国際マラソン・11月3日通行止め」の看板。        
明治天皇は中山道でもよくお目にかかった

リーマート」を見つけたので飲料水補給と手洗い。「諏訪神社」のあたりを通過するときには雨は少し小降りになっていた。バス停の名前に「鉄砲宿」と書いてあるところがあった。
この先から[藤沢市]に入る。
小さい喫茶店を見つけたので入って休むことにした。おばあさんが一人でお客に応対している。「東海道を歩いている人が多いですね。先日も日本語の全く喋れない外人さんがお茶を飲みに入ってこられましたよ」。
ここで休んでいる間に又雨が降り戻してきた。
再び傘を広げて通りに戻る。

しばらく行くと車の激しい道路際にまた「一里塚跡」があった。中山道の一里塚跡と建っている環境が全く違い、車の往来の激しい舗装された広い道路際に建っているので趣が全く違う。
「時宗総本山遊行寺」の前を過ぎる。これは新興宗教なのかな。

                                   
この喫茶店で一休みする

「東海道藤沢宿・昔話のある町」という屋根型看板でやっと藤沢宿に入ったことがわかる。中山道の時も感じたが、その行政区の旧街道に対する姿勢が町の表示板でよく分かる。その点、藤沢市は東海道に対しては関心の度合いが大きいようだ。「歩いて見よう藤沢宿」の写真入りのパネル展示が、一定の間隔をもって道路際に建てられている。

国道を右折して300mほど先にある「白旗神社」に寄り道する。「義経首洗いの井戸」というのを見たいが為だ。ところが数人の人に尋ねたが誰も知らない。
とうとう諦めてまた元の国道に取って返す。
「伊勢山橋」「メルシャンワインの工場」を過ぎるとようやくゆるい登り坂も終わりになる。例の日本橋からの距離表示がここで「54㎞」になっている。
すぐ「一里塚」の表示板に出会った。「大山街道入口」の信号灯。「おおやま」と読む。
「Route1」の表示板に「茅ヶ崎市」とある。藤沢市から茅ヶ崎市に入った。

道路の向かい側に「明治天皇御小休止址」の石柱が見える。中山道では和宮に負けないくらい「明治天皇××処」を見たが、東海道でも明治天皇に時々お目にかかる。この天皇はあちこち国を行脚されたのだろう。
「松林(しょうりん)小学校」を過ぎると「牡丹餅立場」の立派な説明板があった。中山道ではいたるところでお目にかかった「立場」の標識だが東海道ではあまりお目にかからない。「TOTO茅ヶ崎工場」が見えてきた辺りで「平塚8㎞」。
茅ヶ崎高校の前あたりには少しではあるが松並木になっていて説明板もある。

「平成の一里塚」の説明板があった。なぜわざわざ「平成の」と言っているのか疑問だったが読んでみると特別な意味がなかった。この位置と、この道の向かい側に一里塚があったということ。次の信号は「一里塚」交差点の信号だった。始めて一里塚の名前が付けられている場所表示を見た。道路を横切るためのエレベータがあったので興味本位で乗ってみることにした。


「茅ヶ崎市勤労市民会館前」あたりで平塚には6㎞となっていた。地図に載っていた「第六天神社」。「鳥井戸橋」を渡り「鶴嶺八幡宮」を過ぎ「こいで川」を渡り、「今宿」の信号を見て、駐車場に車が一杯の「森ノ珈誹店」を右に見て歩くと信号機は「平塚市」に変わっていた。あと3㎞だ。
「馬入橋」という長い橋を渡る。1㎞になんなんとする長い橋だ。橋の中ほどの距離表示は「日本橋62㎞」に変わっている。
雨はすっかり止んだが、辺りは帳が下りてきた。この時期夕暮れになると何とも言えぬ侘しさを感じる。
JR平塚の駅に着いたころには陽は殆ど落ちていた。
都心へ行くという恵二とここで別れる。

                      長い橋だった      
 
次回の箱根越えルートのスタートはここから始まる予定。

 

 

 
 
ここまで来ると日も傾いてきた

                                   東海道第3日(回)目 

          「平塚宿~大磯宿~小田原~箱根宿~三島宿」                                             261126()261129() 34           

                       初日  平塚駅1215発 ~国府津駅着 1705分    歩数23319

        2日目 国府津駅835発~箱根湯本駅着1705分    歩数23236

        3日目 箱根湯本駅~箱根関所             歩数17595

        4日目 箱根関所~三島広小路駅            歩数22682  

中山道は山や畑の中を宿場から次の宿場へ歩いて行く感じなのに対し、東海道は駅から駅という感じで、距離的、時間的に都合の良い所まで歩き、そこから鉄道やバスやタクシーを利用して宿所に行き、次の日は、宿所から乗りものを利用して前日到達した地点まで戻り、そこから歩き出すという歩き方になる。

今回は東海道行脚に於いても、最初にして最後になると思われる34日の行程になった。

初日は前回の最終到着地点「平塚駅」(平塚宿)まで新幹線と在来線を利用して行き、その日の午後は、宿場で言えば「大磯宿」と「「小田原宿」の中間あたりの「国府津駅」まで歩き、そこから東海道在来線を利用して「鴨宮駅」近くの宿所「鴨宮ステ-ションホテル」に行き宿泊、翌日は同じルートを戻って前日歩き終えた国府津駅から東海道を箱根湯本駅まで歩き、箱根登山鉄道を利用して一旦小田原まで戻り、宿所「ビジネスホテル伊勢」に宿泊。3日目は箱根湯本駅から箱根関所まで歩き、バスで小湧谷を経由し、強羅まで行く。急坂を登って宿所「温泉民宿三花月」に宿泊。翌日はタクシーで箱根関所まで戻って、今回の東海道行脚の最終日を歩き出した。

今回のトータル歩数は86832。歩数は体感したより少なかった。箱根峠越えでアップダウンの道が多かった為であると思う。街道以外の分を6832歩としても8万歩。55㎞程は歩いたことになる。

                     初日  平塚駅1245発~国府津駅 着 1705分 歩数23319

長い今回の東海道行脚は平塚駅前からスタートした。

駅前から100㍍強ほど歩いて東海道に入り左折。立ち寄った番町皿屋敷の「お菊塚」は街道から少し左に入った処。

「平塚宿の江戸見付」の縦長木製表示。中山道には「立場」が目についたが東海道は「…見付」が多い。

「脇本陣跡」に続いて「本陣跡」の石碑。 郵便局を見つけた。本日最初の郵便貯金千円也。

「問屋場跡」の説明看板があった。つづいて「京方見付の碑」。この宿場は当時は大きい宿だったのだろう、「東海道平塚宿」の石碑が一里塚のような土塁の上に置かれている。

「大磯町」に入ってまず目に付くのが「高麗山」。金目川に架かる「花水橋」の右にそびえる小さなお椀型の山だ。広重の絵にも描かれている山。 

この辺りは「小田原21㎞」「日本橋から66㎞」の地点。国道一号線に沿って歩んでいる。

「化粧坂」に来た。(ケワイザカと読む)。伊勢街道の長谷寺から歩くとすぐに同名の坂がある。あそこは(ケハイサカ)と読むのだったと思う。「化粧坂の一里塚跡」が大磯宿の史跡として残っている。先述の高麗山の一部が見える広重の絵が道端に掲げられている。

「右・大磯駅」の看板を見てまっすぐ進む。

老舗らしき蕎麦屋さんを見つけた。やはり100年以上の昔から商っている店だった。現在のおかみさんが今4代目ということで、正月にはこの前の道路を大学駅伝の選手が走る事などいろいろ話しかけてこられた。屋号は「古伊勢屋」だったと思う。

しばらく行くと「海水浴場発祥の地」と書かれていた。(へええ、ここが日本で始めて海水浴をした場所なのか)。

続いて「鴫立庵」。京都の「落柿舎」滋賀の「無名庵」と並び、日本三大俳諧草庵の一つという。道から一段下がった場所にあった。道から写真だけ写した。

「大磯中学校前」の1号線は松並木が残っており少し、旧街道の匂いが感じられた。(この地点で小田原から18)

しばらく先に「大磯城山公園」がある。言わずと知れたあの「吉田茂」元首相の旧宅跡だ。我々の年代には終戦直後の記者席に向かって、机上のコップ水を浴びせかけた姿が懐かしい。あの大変な時代に日本国民をリードされた苦労は並々ならぬものであったろう。屋敷も広大であった。屋敷と云うがここは公園だ。屋敷を公園にしたのではなく、もともと公園のような広い場所に吉田さんの邸宅があったと云ってもいいのだ。建物は2009年に焼失したという。

帰宅後原因を調べたら屋敷の失火は漏電か何かの自然発火であったという。今年から市が再建に取り掛かる予定と書かれていた。

「ふどうがわ」という小さな川を越えると「江戸から17里」の縦型標識があった。

「六所神社」の前を過ぎる。二宮郵便局があったが今日は土曜日なので貯金は受け付けてくれない。雨は依然としてやまない。「小田原14㎞」の表示。信号灯の明るさが増し、ビルの灯りが濃くなってきた。ついに「小田原市」の表示に出会った。「近戸神社」を過ぎると「日本橋から78㎞」の標示を過ぎると「国府津駅前」に近づいた。

 第2日 国府津(こうず)駅835~箱根湯元駅 1705分 歩数23236

 「鴨宮駅」に戻り電車で昨日歩き終えた「国府津駅」まで戻る。

今日のスタートはここからだ。

「親木橋」から歩き始めすぐに「日本橋まで79㎞」の例の表示板に出会う。

 今歩いているのは「国道1号」だ。「箱根11㎞」の交通標識。「酒匂川」に架 かる「酒匂橋」を渡る。天気が良ければ多分この橋から右の方角に富士山が見える筈だと思うのだがあいにく今日の天候では無理だ。

「新田義貞の首塚」に行くために少し街道を外れる。「日本橋83㎞」の標示に会う。人間の小さな一歩一歩は知らぬ間に大きな距離になる。「小田原城」が近づいてきた。小田原城には是非立ち寄ってみたい。あと1㎞を切ったところの「万町」は「よろっちょう」と読む。

「小田原宿脇本陣古清水旅館2F資料館」の標示。読んでみればここ小田原城でも大阪の京橋界隈と同じような悲劇があったらしい。第二次世界大戦終戦日の昭和20815日深夜1時から2時ごろ、B29爆撃機の焼夷弾攻撃を受けたという。マリアナ諸島の基地へ帰る途中、爆撃計画にない爆撃をしたらしい。多分焼夷弾の使い残しを、重量を減らそうとして投げ捨てていったのだろう。12名の死者が出たという。戦争の恐ろしさと悲惨さもさることながら12名の人々の無念さはいかばかりであったろうか。

「小田原宿」の看板を見ながら城内への道を進む。ほんの数百年前に十万人を超える日本人同士がこの城を挟んで殺しあった悲惨な光景がどうしても浮かんでこない。実際にそんなことがあったのだろうかとさえ思う。

 広場で休んでいると、私の横に小さな幼児も交えた外人家族がやって来た。

臨月ほどのお腹の若い女性と話した。なんと地球の裏側に近いコロンビアからやって来たという。31歳のその女性の前にいた姉のように見える人はなんとその女性のお母さん。お母さんの歳は47歳。え!31歳の娘と47歳のお母さん。16歳の時の子供?さすが二人とも何とも言えぬ笑い顔。娘の夫は日本で働くミリタリーとか。母の夫は母国に残してきたようだが、甥、姪など10人ほどの家族旅行。そのうち4人ほどが遊び盛りの小さな子供。

城を出たところの「東喜庵」というお蕎麦屋さんに入った。結構混んでいた。蕎麦とどんぶりのセットを食べた。

「小田原城主大久保家一族の墓所」と大きく書かれたお寺を通り過ぎる。

「松永記念館」「小田原文学館」などの表示看板を見たがいずれも素通りして先へ進む。

前方右上を電車が走った。箱根登山鉄道だ。しばらく行くと「風祭駅」があった。(かざまつりえき)とローマ字のルビが打ってある。

「長興山招太寺」の参道が右手に大きく見えた。“インターネットの君”はこの寺への坂道を上り境内で昼ごはんのパンを食べたと書いている。この人は何故かお店に入って食事をする習慣がないようだ。お腹が減ればコンビニを探す。

「小田原湯本カントリー倶楽部」の表示看板を過ぎれば「三枚橋」は目の前だった。「三枚橋から箱根峠への長い登り坂が始まる」という前知識を持っていたので(ああここが胸突き八丁の入り口かと思った)。

三枚橋から「早雲神社」まで登り坂を歩いて明日の出発地点を決めてから「箱根湯本駅」に向かった。

今日はこの駅から電車で小田原まで戻り、駅近くの宿所「ビジネスホテル伊勢」というところで泊る。




  
 

3日 箱根湯元駅 805分~箱根関所    歩数17595

「ビジネスホテル伊勢」を出て、小田原駅から「箱根湯本駅」に電車で向かう。駅構内の喫茶店でコーヒとホットケーキで朝食。そのあと昨日の最終地点「早雲神社」まで、距離は僅かだがきつい登り坂だったのでタクシーを使う。

今日のスタートはこの「早雲神社」からだ。

しばらくは箱根湯本温泉旅館街の坂道を登る。街道沿いのこの辺りの旅館で泊っていれば楽だったのだな、などと考えながら歩く。しかし我々の目的は温泉湯治ではなく厳しい街道の山歩きだ。説明板には「早雲通り温泉郷」と書かれている。

ここから「畑宿」までの4㎞程の上り坂は、思ったより勾配が厳しくなく、周りの山々は紅葉していて気持ちの良い道であった。県道「732」となっている。

道は登り一方ではなく時々フラットでところによっては下り坂まであってそんなに疲れない。

「須雲川自然探勝歩道・畑宿1700m・元箱根6200m」を過ぎる。

「畑宿」へ近づくにつれて道は山の中に入り、歩き辛いが楽しい自然道になって来た。

「割石坂」(曽我五郎が富士の裾野に仇討に向かう時、腰の刀の切れ味を試そうと路傍の巨石を真二つに切り割ったところと伝えられています)の表示。

「これより江戸時代の石畳」と書かれた横長の木製表示は印象的だ。「Stone-Paved Road in Edo period from here」。

中山道にもあったが「接待茶屋跡」を過ぎ「大澤坂」(この辺りつつじ盛んにて殊によし)の石畳を過ぎる。

「本陣跡」の説明板には、あの「ハリス提督が箱根越えの途次休息したと伝えられています」と添え書きがある。この日本庭園にも感嘆したこともー。

ここ畑宿は「寄木細工」の名所とか。「桂神代」という何千年も地中に眠っていたとかいう大木の根が入り口に飾ってある「浜松屋」の前を通った。

この「畑宿」は東海道の「間の宿」として栄え、茶屋があり、蕎麦、鮎の塩焼き、箱根細工などが旅人の人気だったところだという。 

この「畑宿」の西のはずれは私には大変印象に残る場所であった。

まず大きな縦長の木彫り(または木彫りに見せかけた石造り)表面に「箱根路東海道の碑」と書かれ、「江戸より23里・一里塚」のこれまた縦長の標示、左側に建っている「箱根寄木細工」の縦長表示と、まるで山道へのゲートのようになっている。

橿の木坂」は東海道名所日記に「橿の木のさかをこゆればくるしくて、どんぐりほどの涙こぼる」とあるそうだ。階段の苦手な私には階段坂はこの歌のように涙はこぼれなかったがきつかった。

 この登り階段の途中で、木製階段に打ち込まれた金属製のボルトが緩んでいたのに引っかかって、見事に転び、階段から右側の谷川へ転げ落ちそうになった。

 ここから少し先に登った処で兵庫県西脇市から来たという27年生まれの夫婦に出会った。(注・写真)

苦手の階段を上りきり「山根橋」「甘酒橋」「猿滑坂」「追込坂」の表示板を過ぎて歩く。

そして当面の目的地「甘酒茶屋」に到着。

手前の茶屋の建物は本来の茶屋なのだろう。この建物の隣に、今使っている「茶屋」が建っている。ここで昼食のこんにゃくおでんと安倍川もちを食べた。

不意におかみさんがやって来て「歩いて来られたお客さんに書いて頂いているのでお願いします」と言って、古びた「サインノート」と筆を渡された。(注・写真)

おかみさんは京都の四条大宮の出身だという。

1時間たっぷり休んで記念撮影などのあと再び歩き出した。

「於五坂」(何と読む?)「天ヶ石坂」「権現坂」などの石畳もあり「ケンベル」という外人の写真の飾ってある大木の幹の前を通り、坂を降り切ると元箱根の芦ノ湖のほとりに出た。

但し雨は少し強くなってきたようだ。湖面を走る遊覧船の写真を撮りながら

60年ほど前、高校の修学旅行でここへ来た筈だが、まったく記憶も何らの印象も残っていないと考えていた。

この段階で時間的には余裕があった。「箱根旧街道杉並木」の道を歩いたころは雨も本降りに近くなっていた。中山道も東海道も並木道と云えば「松」であったがここは杉の木が植えられた。350年以上の樹齢の杉が20本以上道の両側に植えられている。

恵二は前に入っていると云うので、私一人木戸賃400円を払って入った。中山道の福島関に似た構えであるが福島は木戸賃を取らなかった。
 
 再び歩き出し、運よくすぐにやって来たバスに乗り小涌谷ホテル前まで行き、さらに十数分待ってバスで強羅まで行く。

小湧谷ホテル駅前のバスストップで20歳代の中国人の女性と30歳前後と思われる台湾人の男性から声を掛けられる。(私は台湾、彼女は中国(本土)から来た)と云うからには、この二人夫婦とは思われないし、留学生かと尋ねたら「(No!)ツーリスト」と答える。(この二人何者だろう)と変な詮索もしたくなる。「このバスは強羅まで行きますか」というのが出会いの最初に受けた質問であった。女性は背が170センチあろうかという長身でかわいこちゃん美人タイプ。別れ際に「あなたは英語がお上手」と褒められたが、ネイティヴに言われるなら納得できるが、英語圏ではない中国人に[英語が上手]と言われたくないよ。お前さんだって他国語が上手いね、と言いたいよ。

彼らの宿所「雪月花」は、どうやら高級旅館のようだ。我が方の民宿よりグレードが数段上だろう。

強羅駅で降りて十分ほど坂道を登って行くと、今夜の宿「民宿三花月」があった。今回の三泊のうち、朝夕食を食べられるただ一つの宿である。

     
      第4日 箱根関所(8:30)~三島広小路(16:15)   歩数22682


8時過ぎ、迎えのタクシーに乗って昨日歩き終えた「箱根関所」まで行く。

雨は相変わらず降り続いている。その上今日は靄がかかり車に気を付ける必要がある。雨の中、今回の街道歩きの最終日が始まった。

 歩き始めすぐに「箱根郵便局」があった、が、生憎今日は土曜日で貯金は出来ない。靄の向こうの看板は「海賊船のりば」と読める。何か意味のある舟かな?

しばらく行くと説明板があった。

「旧箱根宿の西側にあたる芦川の街並みを過ぎると、旧東海道は箱根峠までの約四百メートルにわたって急坂が続きます。この坂は順に「向坂」「赤石坂」「釜石坂」「風越坂」と呼ばれています(後略)」「この箱根旧街道向坂地区の入り口付近には、(芦川の石仏群)と呼ばれる数多くの石仏・石塔があります(後略」。と読める。

 向坂、風越坂を越えると先ほどの説明板になかった「挟石坂」というのもあった。「箱根峠」のバス停の文字も靄に霞んでファインダーの絵も鮮明ではない。

「三島宿11㎞」の標示は山道沿い。今日の行程もあと11㎞だ。「茨ヶ平」という地名の場所を過ぎる。「函南町・兜石」と木製標柱の横に屋根のある四阿があった。ここではほんの少しの小休止だけで先に進む。靄は相変わらず視界を遮っている。

「接待茶屋」の看板あり。中山道にも同名の場所があったが、ここは[]というだけで何もない。

「兜石」「念仏石」を過ぎると「これより江戸時代の石畳」に差しかかる。石畳はうれしいのだが、石が濡れていて滑りやすい。足元を注視して俯いて歩いていると大事な看板を見落とすことがある。街道ブックで読んだ「雲助徳利の墓」が足元に急に現れた。酒好きの雲助の墓石はおちょこ型なのか。

舗装道路(国道1号だった)への最後の短い上り坂を登りきると右に「山中城跡」その向かいの左側にお茶や「竹屋」があった。



傘も差せず、お腹もすいたわれわれには救いの神。我々の他にお客の居ない茶店で、結果的にはきっちり1時間休ませてもらった。ストーブに濡れた衣類をかざし、一時的に肌着を変え、安倍川餅ときなこ餅,こんにゃく田楽でお腹を満たした。昔はここで鰻料理を出したこと。息子が下の三島で同名の「竹屋」という屋号でウナギ店を開業していること。茶店のおばさんにはいろいろ苦労話も聞いた。

再び濡れたシャツに着替え、おばさんにお礼を言って茶店を出た。向かいの山中城趾への階段を上る。ここは国指定史跡・日本百名城に指定されている。

雨はまだやまない。箱根峠の頂上だと思われる地点で、雨は一段と激しく、風も強くなった。進むべき方向も定かではない。庇もない建物の陰で進むべき道を検討する。何とかそれらしき方向を定めて歩き出す。靄で見極めが難しいのだがどうやらこの道は正しいようだ。

そしてここからが「西坂」と呼ばれる三島の町までの長い下り坂の始まりであった。

雨は、靄は、風は、依然として行く手にたちはだかっている。

途中で、短いが2ヶ所、旧街道が通行止めになっているところがあった。

今歩いている道路はどうやら国道1号線らしい。道の反対側に霞んで見える「109」という数字は、どうやら日本橋から109㎞という意味だろう。

この国道沿いに芭蕉の歌碑が建っていた。

「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」

やはりこの辺りは霧が立ち込めるロケイションになっているようだ。

「グランフィールズカントリークラブ」の大きな看板が見えるあたりの西の空に、たなびく雲がかかって何とも言えぬ空模様を醸し出していた。何とかカメラに収める事が出来たが今一つ鮮明ではない。

この辺りで日本橋から110㎞。

「三島市 三ツ谷新田」の標示を見つけた。やっと三島市に入ったようだ。

「箱根旧街道」の説明ボード。このタイトルのボードはこの街道のいたるところに建てられている。テーマは同じだが場所ごとに内容は違う。今回のサブテーマは「題目坂」。次に出会った同名の説明版のサブテーマは「白転坂」。

「伊豆フルーツパーク」と壁面に大きく書かれた工場風建物が現れた。国道も目の前。この辺りから下り坂も終わりに近づいて村落らしきところに入る。

国道に合流する位置の大きな石に「箱根路」と彫られていた。西からの登山者に対する標示だ。「富士見ヶ丘」のバス停を通る。晴れていればこの辺りからも富士山が見えるのだろうか。

「初音ヶ原」の表示石」「景観重要道路 箱根旧街道 国道一号谷田地区」と書かれた標柱。

旧街道を彷彿させる両側松並木の道路の一角に「錦田一里塚」跡があった。珍しく道路の両側に一里塚独特のマウンドが残っている。この辺りで「三島宿2km」となっている。

箱根旧街道説明ボードのサブタイトルは「松並木」に変わっている。

街中の「愛宕坂」を下ると三島大社が前方に見えてきた。

峠の茶屋[竹屋]で、おばさんに鰻の話を聞いてから無性に鰻が食べたくなっていた。なんという幸運か、三島大社の真向かいに鰻屋さんがあった。最安の「ウナギ太郎?」1600円を食ったがタイミングが良かったのでそれなりに満足した。

40歳代ぐらいのおかみさん?が、「東海道を歩いておられるのですか」と声をかけてきた。「甘酒茶屋」のおかみさんといい、旅の人には親切にしてくれるようだ。 「世古本陣址」の小さな表示を過ぎて今日の終着点「三島広小路」駅に着いた。


陽はまだ明るかった。










                         東海道第4()目 
           
           「三島~沼津~原~富士」 

  27311()27312() 12  

      初日 三島宿(広小路駅)1145発 ~原宿(原駅) 1705分歩数30421

       2日目 原宿(駅)845発~富士宿(駅)1515分着   歩数30389

  「風に立つ富士山」

映画「風に立つライオン」が今封切られているが、今回の東海道行脚のテーマをつけるとすれば、まさに「風に立つ富士山」だ。

今回は今まで経験したことのない強い風の日だった。特に初日、311日の午後は凄かった。街道を歩いていて突風に吹かれ、危うく吹き飛ばされそうになって,何かの支柱につかまって事なきを得るということもあった。西に歩く我々にアゲンストの冬の西風は厳し過ぎた。

今日のルート上にはさしたる見どころも少なく、辛うじて富士の姿だけが楽しみであったが、その富士も2日目の正午までは雲に隠れる部分が多く、体感的にはいつもより疲れを多く感じた。

                             初日311()

 ひかり
460号、こだま640号を乗り継いで三島駅に着いたのが11時半頃、本来ならこの駅で20分以上待たなければならなかったのに、新幹線が強風で遅れたため1141分発の修善寺行きにぴったりになった。

先日の終着地点である三島広小路駅から1145分頃歩き始める。

写真の富士山は往路の新幹線の中から撮ったものである。「東海道を歩き始めればもっと良い富士山が撮れる」とこの時は思っていた。

富士山以外余り見どころのない今回のウオーキングの最初の見どころはこの「千貫樋」(センカイドイ)であるが,まったく見どころとは言えない。どう見てもどぶ川である。

常夜灯があった。建立は1846年。随分古いものだ。

江戸から29里の「玉井一里塚」。この一里塚はほぼ昔のままの姿を残していると説明板に書かれていた。この地点で我々も約120㎞歩いてきたということになる。

次のチェックポイントは「対面石」。頼朝と義経の兄弟が此処で会い、この石に座って話したという二つの石があった。石のある場所は八幡神社。

「大岡二つ谷東」の信号を過ぎると「日本三大仇討の一つ」という説明板が目に留まった。

次に「三枚橋東」という信号灯に来た。「三枚橋」というのは「箱根湯本駅」の手前にもあったのを想い出した。

国道380号に合流する。この辺りで富士には18㎞、静岡には56㎞。

「旧東海道川廓通り」という黒っぽい石碑が建っている。静かな裏通りで珍しい風景に出くわした。小型トラックの荷台で火が燃えている、焼き芋屋さんだった。

呆然として立ち尽くす私の目の前で、焼き芋屋さんの男性は運転台に乗ってさっと走って行った。荷台では火が赤々と燃えている。それも薪のような火だ。危ないなあと見ているうちに、先の角をすっと曲がって行ってしまった。

さてそろそろ沼津城跡が近くにある筈だ。城跡への角を曲がる前に「三枚橋城石垣」という説明看板が目に入った。どうやら「三枚橋城」が廃城になった跡地に沼津城が築城されたようだ。その沼津城も、今は完全に跡形がなくなって「中央公園」という舗装地面ばかりの公園になっている。

ここはどうやら沼津市の中心らしい。静岡新聞・SBS(静岡放送)の建物の前の信号を渡る。 歩道の一角に「沼津宿」の木製表示が建っていた。

「西間門」(ニシマカド)の信号を見た。

郵便局を見つけたので早速「千円街道貯金」を収めるために入った。中山道ではこの街道貯金がきっちり5万円になった。東海道ではまだ15ヶ所にもなっていない。東海道は意外にも街道筋に郵便局が少ないように思う。

右前方、ビルの合間に富士の姿が見えた。頂きに雲がかかって決して美しい富士ではなかったが、これから富士山と行動を共にする楽しみがあった。

「千本松原」には行きたいと思っていたので、通りから400㍍ほど左へ逸れて海岸まで足を延ばした。強風にあおられて波が恐ろしい形相で海岸線に押し寄せていた。この辺りにこの松原の保存に真剣だった若山牧水のお墓があると聞いていたが、長い海岸線のどの辺りにあるのか、この強風の中では探す意欲も湧かなかった。写真を写そうにも、石垣か支柱かに、自分の体を支えて貰わなければカメラを構えた時に体が安定しない。街中でも強い風が海岸ではより一層強さを増す。

「一里塚跡碑」の黒っぽい石柱がコンクリートブロックの塀に取り囲まれるように建っている。ここから少し行くと民家の屋根越しに雪を前面に頂いた富士山が見えた。あとで振り返ればここで見た富士山の姿は、翌日の午後、富士駅に近づいた時点まででは最も美しかった。

少し歩くとどうやら「原宿」に入ったらしい。「浅間神社」を過ぎると「東海道原宿・本陣跡」の石造りの表示板だけがあった。

この本陣跡石碑を見て、すぐ「原駅入口」の信号灯があった。その角を左に入れば目の前に原駅があった。

今日はここから電車に乗って沼津まで戻り、ホテル東急インに泊る。

明日は再びこの駅まで電車で戻り、この信号灯から西へ歩くことになる。


  2日目312() 原~      吉原~富士 晴れ 風強し

 ホテル東急インは宍道湖へ行った時にも泊ったことがあるが、今日改めてコストパフォーマンスで云えばいいホテルだと思った。安い割に内容が良い。

昨夜はホテルから数分歩いて「赤から」というところで夕食にキムチ鍋を食べた。10段階の4を指定した が辛かった。
さて今朝はホテルを830分ごろスタート。スタート後300mほどの小さなビルの軒先で、2㎝ほどの段差を踏み外して、2,3mたたらを踏んで転びそうになった。自分では立ち直ろうとしているのだが送り足が思った通り前へ進んでくれない。スローモーションで動くようにつんのめりながら、辛うじて転倒を逃れた。数え80歳の年齢を痛切に感じた。

さて沼津駅から原駅まで電車に乗り、昨日終了した地点「原駅入口」の信号まで行く。
名前は覚えていないが曹洞宗のお寺を過ぎる。

道路右手の家々の屋根越しに見える富士山の姿は、少し雲がかかっているがまずまず。

「桃里西」というバス停を通る。

すこし歩いたところで「富士市」の看板が頭上に架かっていた。

「東柏原」と書かれた表示が信号機の横に架かっている。道路の右側にコンビニがあった。ここが富士山を見、撮影する絶好のポイントだった。但しこの時点で富士山の姿は最高ではなく雲が多めにかかっていた。

「見よう歩こう富士市の東海道・六王子神社・原宿」」と書かれた1mほどの黒い縦型表示柱。富士市は道路際にこの表示を何メートル置きかに立てている。

「東田子浦駅」のバス停を過ぎる。
「田子ノ浦ゆ打ち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」
( 山部赤人)

ただ現在ではこの歌の場所もはっきりしないらしい。

「六王子神社」。龍の生贄にされた娘「おあじ」を悲しんで沼へ身を投げた6人の仲間が葬られているという。「間宿柏原:本陣跡」の例の縦型黒い標柱。

宿場間の隔たりが長いところでは、その間の宿として「間の宿」というのが中山道にもあった。「増田平四郎の像」の表示を見てからは、もっぱら、刻々と微妙に移り変わる右前方の富士山に集中して歩いた

「名勝左富士」は左方向と指示した、例の市の黒い標柱があった。もう少し先で道路が右方向(北方向)に曲がるので、その間、富士山が向って左手に見える場所があるという。驚いたことに「左富士神社」という神社もあるそうだ。

さてJR吉原駅にやって来た。時間は正午近く。お腹が減ってきている。駅の近くののレストランか蕎麦屋さんでお昼を摂ろうと考えた。ところがないのである。駅員さんに尋ねたら「この辺りは食事するところがなくて私たちも困っているのです。喫茶店ならありますが」という心寂しい返事。

その喫茶店をやっと探してカレーライスを食べた。

45分間の昼食休憩を取った後1230分再び西に向かって歩き出した。

幸い富士山はだんだん良くなってきた。頂きに雪を頂く典型的な富士の姿になって来た。

予ねて聞いていた「左富士神社」が街道の左側にあった。

富士市教育委員会の名で「東海道名勝左富士」の説明ボードがあった。

安藤広重描く第15番目の「吉原(左富士)」の陶板絵も見える。

説明書にもあった「平家越え橋」のそばに「平家越の碑」がある。富士沼の水鳥が飛び立つ羽音を源氏の襲来と勘違いして、平家の軍勢が逃げ去ったという故事にちなむ。

富士の姿がだんだん美しくなってきた。先端部に雪を頂いた典型的な姿になって来た。ただ右から左に、少し多めにやや色黒の霞がたなびいている。点数で云えば83点だ。例の富士市の黒い標識は「東木戸跡」に変わっている。

「吉原宿八坂神社」の屋根型木製表示を見る。

「吉原本町駅」のそばの踏切を通り過ぎる。これは岳南電車岳南鉄道線の駅だという。「明治天皇御小休所」と書かれた数十センチ四方の石を路傍に見つけた。中山道でも至る所で明治天皇の足跡を目にしたが、この天皇もあちこち散策されることが多かったのだろうか。

さてどうやらこの辺りから「吉原宿」が始まるようだ。

「木の元公園」を過ぎ「錦田北」「錦町」の信号をすぎる。富士がだんだん大きく迫ってくる。

「ここから青葉通り」の標識。例の黒い表示は「間の宿本市場」となった。

「高島」の信号を過ぎた。この辺りは車の走る街中だが、角を曲がり家の庇が途切れるたびに富士山が顔を出す。そのたびにカメラを向ける。白い涎掛けが少し大きくなってきたようだ。山の形は良くなり,迫ってくるその姿は一層迫力が増し、大きくなってくる。総合庁舎前あたりではベストポジションだったが、残念なのは電線とビルだ。

扇型の「旧東海道間宿本市場」と書かれた表示がある

「富士第一小学校」の前を通り「富士税務署」を過ぎてすぐ左へ曲がれば、正面に「JR富士駅」があった。

今回はこの駅から静岡駅まで東海道線に乗り、静岡からは新幹線で帰る。



 

  東海道第5日目

       富士駅~蒲原宿(蒲原駅)」「蒲原駅~清水駅」

   27513()14()                          

       初日  富士駅1147発~蒲原宿(蒲原駅)着1620分 歩数20345

       2日目 蒲原駅935発~清水駅着1705分       歩数30057

 

京都三条大橋から歩き出した中山道を、昨26年115、2年半かけて無事お江戸日本橋に到達した直後から、次回はその日本橋から京都三条大橋に向かって東海道を歩いて帰りたいと思っていた。そしてこの秋(26年)甥の小西恵二と同行することになって、1016日、ついにお江戸日本橋から西に向かって歩き出しました。歩行計画は中山道の時と同様、1ヶ月に1回または2ヶ月に3回のペースを考えています。

 

             第一日目 富士駅1147発~蒲原駅1620分 

27513() 快晴

744分郡津駅発。京都駅から856分発「ひかり460号」に乗り1032分静岡駅着。ここで在来線に乗り換え富士駅着1129分。昼食は静岡、富士駅間の車内で済ませた。

今日は天候に恵まれたが、ひかりの車内から見る富士山は冠雪が少なくて雪沢のタテ筋が走っている。こんな富士を見る機会も余りない。

富士駅到着後すぐに先日左折した税務署通りの角に向かって歩き出す。ただその前に平垣公園(へいがき)にある「芭蕉の句碑」を見るべく道を少しずれることになった。「ひと屋根はしぐるる雲か不二の雪」。この近くの自動販売機には卵が入っていた。わたしには珍しい見ものだった

柚木駅前を過ぎる。民家やマンション越しに富士山が見えた。しばらく行くと「指定村社水神社」、その横に「富士山道」の石碑、更に「富士川渡船場跡」の立派な石碑。富士川渡りの舟は「岩渕村」と「岩本村」間で行われたと説明板に書かれている。またここは「富士山への登山道の入り口」にもあたるとのこと。富士山は遥か彼方に見えるのにここから富士の麓まででも随分距離があるようなのだが-。富士川をまたぐ橋の上で記念写真を撮る。雪解け水だろうか濁流となって流れる様は迫力があった。

この辺りは「蒲原宿」と「吉原宿」の間にあり、いわゆる「間の宿」で「岩淵宿」と名付けられている。橋を渡った処を右折し向かい側の船着場跡を見る。

「史跡岩渕の一里塚」の金属製の表示板。東海道は一里塚そのものはほとんど見られず「跡」が多い。

人家の壁に立てかけられるように竹の塀が出来ており、太い竹片に和歌が書かれている。たまたま私が見た一つは中納言朝忠の詩で「逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも恨みざらまし」?おや?なんだかおかしい。わかったことは「身をも」の3字が「人をも」の次に欠落されていることだった。

またあった!明治天皇御駐輩之址」(輩の字は冠が非ではなくて大大であったがPCにないので誤魔化し文字にした)。この辺りの右側には家々の隙間を通して富士山を何度も見る事が出来る。天気はいいのだが山の姿は薄曇っている。

「北条新三郎の墓」への表示板の近くに「一里塚跡」の説明板とお稲荷さんがあった。「諏訪神社」「東木戸常夜灯」「渡辺家土蔵」「なまこ壁と塗り家造りの家」「山からひかれた巨大な発電用のパイプ」「問屋場跡」「旅館和泉屋」「本陣跡」(建物が残っていた)。更に「高札場跡」「御殿道跡」。

この町は旅人に対する心遣いの説明ボードが続く。「旧五十嵐邸」を過ぎ増田家の「美しい格子戸の家」を見る。確かに格子は美しい。国道
396号の表示板は、静岡27㎞、由比3㎞。少し早めだが街道沿いの「広重美術館」の閉館時間の関係も考え今日は目の前に近づいた「蒲原駅」からホテルのある清水駅まで戻ることにした。

 

第二日目 蒲原駅915発~清水駅1620分 

27514() 快晴

 二日目も快晴。昨夜の宿泊所「清水シティホテル」は、謳い文句通りまさに「駅から10m」。これは便利だ。
 朝8:47分発に乗り蒲原へ向かう。今日のスタートは昨日終わった蒲原駅から始まる。
 歩き出してほどなく「由比宿すぐそこ0,6㎞」の看板あり。但し由比駅までは2,8㎞だ。立派な表示板「由比宿東桝型址」。「昔の商家志田邸宅」

さて見えてきた。待望の「由比本陣公園・東海道広重美術館」は道路の右側。

係り員の親切な指導で「版画の作成」もさせてもらう(300円)。広重の「由比宿」と「蒲原宿」の2枚の絵を4度刷りと6度刷りでー。旅の疲れをすっかり忘れさせてくれる楽しい時間であった。ここでは40分以上滞在した。向かいには由比正雪の生家と言われる[正雪紺屋]もある。

またあった。「明治天皇由比御小休所」の石碑。すぐそばには「脇本陣饂飩屋」。「せがい造りと下り懸魚」の説明板。一言で言えばこの辺りに多く見られる「家屋の装飾技法」のことらしい。
 さあそろそろと思っていた「薩唾峠」(当て字使用)の文字がちらほらするようになった。小さな橋
[寺尾澤橋]を渡る。「薩唾峠2,3㎞」。

「中の沢二号橋」を渡り小池邸に来る。江戸時代の名主の系列だという。村落の中に旅行書にも書かれていた[あかりの博物館]というのがあったが何故か入る気がしなかったので素通り。あかりの博物館を過ぎた辺りからそろそろ「薩唾峠」が始まるようだ。

上り坂を進むに従って左方の駿河湾の全貌が大きく開けてくる。「八坂神社」「権現橋」を過ぎると左側の元商家のような佇まいの古い家の軒先に「明治天皇御小休所跡・間の宿脇本陣柏屋」。

峠の頂上に近づいて来るに従って皮肉にも富士山の姿はますます遠く朧になってくる。「薩唾(当て字)山」合戦場の説明板。



 考えてみれば日本人同士が堂々と公に命の取り合いをする時代があったんだねと不思議に思う。遠い未来において「昔は人間同士が殺し合いをしていたんだね」と囁きあう時代がいつか来るのだろうか。

「幸田文・文学碑」の石碑を後にすると展望台のある峠の頂はすぐだった。さすがにここには車でやって来た人もいて、お年寄りの人の姿もあった。トイレもあり暫く頂上からの景色を楽しんだ後、再び先程の続きの道から下り坂を降り始めた。
  坂を降り切った辺りで、工事場のガードマンにしては若い青年に道を尋ねたが、ここで大きなミスをしていたのに気が付いた。展望台からの下り道を間違えたようだ。
 先ほどからお腹もすいていた。幸いにも町に近いところだったので少し先まで歩いてスーパーの中でお弁当を買って昼にした。ここからタクシーを呼び、峠の頂まで戻った。

 旧道は普通なら見落としそうな階段道から始まった。大変急な下り坂を足元に注意を払いながら降りる。「山の神と書かれた石碑があり、その横には「約150m先に山の神(鞍去神社)跡がある」と書かれている。「3,7㎞」先「興津駅」の表示。この辺りは「牛房坂」というらしい。

 舗装された長い下り坂を下りた地点に「興津駅左3,0㎞ 右2,7㎞」の方向表示板あり。(車両通り抜け不可)と書かれた左方向へ進むことにした。前方にひときわ大きく聳えるビルの壁には「駿河健康ランド」の文字。「興津駅1,0㎞」の表示板。興津団地横を過ぎる。どうやら国道1号線に合流したようだ。

「女体の森 宗像神社」を過ぎ興津駅への曲がり角に来る。そのまま国道を歩む。「興津宿公園」の前を過ぎ国道を進む。この辺りは民家の道沿いに小さな木製の常夜灯風のものが置いてあり、その各々に「東本陣」のように説明文字が書き込んである。東本陣跡、続いて西本陣跡を過ぎる。「興津埠頭」の信号灯。「高山樗牛仮寓之處」の石柱。道の左側に「興津座像荘」の建物があった。どうやら西園寺公望公別邸」跡らしい。

お寺の門前に「牛の飲む水は乳となり、蛇の飲む水は毒となる」とチョークで書かれている。もっともらしい標語だが歩きながら考えてあまりいい標語ではないなと思った。

 先ほどから1号線を歩き続けている.街道歩きで最も面白くない時間だ。ただ黙々と足を前に動かしている。「辻町」を過ぎ楕円の大きな石柱「無縁さんの碑」を通る。「細井の松原」という説明板を見るが松原は素通り。「江尻東」の信号灯を過ぎると間もなく昨夜泊ったホテルの前にある「清水駅」だった。終盤の小一時間は変化がない道だったの疲れは大きく感じた。 
 今日はここから帰途につく。





東海道第6日目

「清水~静岡駅)」「静岡駅~藤枝駅」

27610()11()                          

初日  清水駅1100発~静岡駅着1620分 歩数22345

2日目 静岡駅835発~藤枝駅着1715分  歩数30001

 

京都三条大橋から歩き出した中山道を、昨年1152年半かけて無事お江戸日本橋に到達した直後から、次回はその日本橋から京都三条大橋に向かって東海道を歩いて帰りたいと思っていた。そしてこの秋、甥の小西恵二の賛同があって1016日、ついにお江戸日本橋から西に向かって歩き出しました。歩行計画は中山道の時と同様、1ヶ月に1回または2ヶ月に3回のペースを考えています。

 

第一日目 清水駅1100発~静岡駅1620分 

27610() 快晴

今回もまた、京都駅856分発「ひかり460号」に乗り、1032分静岡駅着。ここで在来線に乗り換え清水駅着1054分。昼食はなんとなくお腹が減ったのでひかり号が静岡駅に着くまでに済ませた。

大きく寄り道になるが、やはりこの町は「清水次郎長」。取り敢えずその生家とお墓があるという「梅蔭寺」更にその近くにある「フェルケール博物館」に立ち寄ることにした。

このため予定より1時間半ぐらいはロスしたが、折角清水まで来たのだから日本の侠客の生家に挨拶しておこうと歩いて行った。生家は商店街の中にあり店内には二代目廣澤虎造の浪曲がBGM代わりにボリュームを上げてかかっていた。まだ小学校にも入っていない子供の頃、自宅の蓄音器で親が聞いていた懐かしい虎造の声だった。記念にとDVDを一枚購入した。お昼時になっていたので、このお店の駿河歩人研究会の鈴木恵さんに教えてもらった蕎麦屋へ向かうことにした。

      

美味しいお蕎麦でお腹もふくれ、再び元気一杯東海道行脚をスタート。時間は正午になっていた。
「江尻東」の信号を渡る。
 宿名で言えばここは「江尻宿」ということになる。何度も言うようだが中山道と違って東海道は「宿場」意識が薄れる。宿場間のメリハリがはっきりしないのだ。中山道が島から島へ渡るように宿場から宿場へ渡り歩くのに反して東海道はいつの間にやら宿場に入っており、いつの間にやら宿場から出ている。

道路脇の説明板には「第18宿目江尻宿」と書かれている。江尻宿のはずれの巴川に架かる「稚児橋」を渡る。その昔、渡り初めの時、童子が現れそれが河童だったのではないかということで、橋の欄干に河童と童子の像がある。「入江1丁目,2丁目,3丁目…」の信号を過ぎる。

「追分羊羹」のお店の前に来た。説明書で読んでいたのでここへは立ち寄りたいと思っていた。お土産の羊羹を購入。試供羊羹も一口頂いてお茶で疲れをいやす。街道に戻ると「是より志三づ道」と彫られた縦長の石碑を見る。

次郎長が子分森の石松の仇討をしたという説明板。討たれた都鳥という名前は小さい時レコードで聞いた廣澤虎造の浪花節で頭の隅に残っている。横にあるお墓は、遠州都田の吉兵衛こと都鳥のためのもの。

「江尻宿・静岡市元追分」の表示あり。中山道にも「追分」と名付けられた宿場がある。

「清水狐崎郵便局」。先ほど、「清水江尻郵便局」で東海道貯金をしたが、また郵便局に出会った。実はこの清水江尻郵便局でちょっとした忘れ物をしていたのを当時は気付いていなかった。帰宅数日後、清水郵便局から私の忘れ物を丁寧にも送って頂いた。恥ずかしながらそれで忘れ物をしたことに初めて気が付いた。有難うございました。

さて、静岡鉄道「狐ヶ崎駅」前を通る。街道沿いに「清水有度第一小学校」。続いて「草薙一里塚」の大きな新しい石碑。その右隣に身の丈10尺の豆狸が立っている。少し先の「Mini Stop」というコンビニでトイレと水分補給。「清水第七中学校」を超えるとおおきな鳥居が目の前に迫って来た。

静鉄「県総合運動場駅」を過ぎた辺りに「旧東海道記念碑」と彫られた大きな縦型の石碑あり。東海道はこの種のモニュメント表示には事欠かないが、意外にも道路標識が少ない。
中山道はいわば野山の中の一本道であるのに反し、東海道は近代化された道が殆どだ。至る所に四辻、至る所に分岐道がある。間違えずに旧街道を歩くのには、正しい地図の読み方と細かい神経を要する。

「長沼駅」を過ぎる。暫くは静鉄沿いを歩く。「護国神社」を線路越しに見詰める。「春日一丁目」「横田町西」の信号を越え「上傳馬本陣・脇本陣」の黒い石造表示を過ぎると「JR静岡駅」はすぐだった。
駅前に立つ像の羽織には「家康公四百年祭」と書かれていた。

 

 

第二日目 静岡駅835発~藤枝駅着1715分  歩数30001

「清水第一ホテル」を8時半過ぎに出る。

今日最初に立ち寄ったのは「駿府城公園」の城跡。ここは街道と少ししか離れていないのでタイムロスは少ない。

暫くは静岡駅周辺の繁華街的な街並みを歩く。繁華街的と云ってもウイークデーの地方都市の中心街は人の姿もまばら。「札之辻址」の石碑。「七間町の信号機」「府中宿」の説明板。そうだ、この辺りは宿名で言えば「府中宿」なのだ。「静岡七県郵便局」を見つけたのでまた街道貯金。前方に橋、そろそろ「安倍川」が近いようだ。橋の袂にあると聞いていた安倍川餅の「石部屋」には是非立ち寄りたい。

木製のお盆にきな粉の餅が3つと漉し餡のが2つ。餅はとろけるように柔らかい。「お代は後で結構、チップをはずむ気になりますよ」とお店のおやじさん。チップははずまなかったが美味しい上に300円は安い。お土産にと考えたがこのお餅は時間が経てばその風味を半減すると思ってやめた。

たべ終わって目の前の「安倍川橋」を渡る。500mはあろうかという長い橋だ。

「千手の里手越」の説明板の前を過ぎる。この辺りで交通標識は藤枝17㎞、浜松74㎞となっている。「手越郵便局」があった。また1000円貯金。「さわたりの手児万葉歌碑」(さわたりのてごにい行き逢ひ赤駒があがきを速みこと問わず来ぬ)を過ぎてしばしまた郵便局に出会う。「静岡丸子郵便局」。日本橋から数えて私が訪れた25番目の郵便局だ。

既に宿名で言えば「鞠子宿」に入っているようだ。今の文字で言えば「丸子宿」は、昔は小さな宿場であったので周囲の村々から人足や馬を供給されていた。この制度のことを「助郷制度」(すけごうせいど)と言ったそうです。
「東海道丸子宿」の立札のある新しい建物前に会った床几でミニブレイクを取った。「しらい酒店」を過ぎると、またあった「明治天皇御小休所址」。ここが「丸子宿の脇本陣跡」。つづいて「本陣跡」の石柱。そしてもう一つ「明治天皇御小休所址」の石柱と「脇本陣跡」の標識。「お七里役所」の石柱。

さていよいよやって来た。待望の「丁子屋」。お昼ごはんは「丁子屋」のとろろ飯と決めていた。ところがどうだ折角やって来たその店が「本日休業」とは。やむなく(と云っては失礼かな?)左隣の「一松園」というお店で、とろろご飯の昼食を摂る。名前が売れているかどうかの違いで中身は多分全く同じなのだろう。

ちかくに「十返舎一九東海道中膝栗毛の碑」や「芭蕉の句碑」がある。とろろご飯を食べた岡本かの子の「東海道五十三次」中の一節が書かれた石碑もある。
 

一松園を出ると先ほどまで閉まっていた「丁子屋」の暖簾が外され人影がする。開店は正午過ぎから?と思い写真だけ入口から撮ったが本来は休みなのだが特別な団体のためだけに短時間開けたのだという。

「丸子宿京、大阪方見付」の看板でこの丸子宿ともお別れ。次の(岡部宿)に向かって再び歩き出す。しばらく行くと「日本の紅茶発祥の地」という立札。何?紅茶の起源は日本?。しかし静岡はお茶の名門産地だからありうるか。

暫くは山あいの集落の中を歩く。しかしすぐに[赤目ヶ谷]というあたりで高速道に出会う。オーバ-ブリッジを渡ってからも並行した道を行く。「道の駅宇津の谷峠」から峠道に入る。

 久し振りに風情のあるそれらしい地道だ。「交通の難所宇津の谷峠」の説明ボードがある。「旧東海道お羽織屋明治のトンネル」左の方向指示板があったがその道は通らなかった。あとで考えれば通ればよかったと後悔した。小さな村中橋を渡れば村落に入った。これが「岡部宿」なのだろうか。

村落の短い距離を歩き終えると峠の登り口があった。

途中の竹林がなんとも言われぬ程美しかった。中山道の碓氷峠、伊勢街道にもこんな竹林があった。逆光の木漏れ日が得も言われぬ光線美を出現させていた。「峠の地蔵堂址」を過ぎ下りに入る。この下り道を「つたの細道」というらしい。

峠道から村道に進む。「岡部宿案内板」に出会う。どうやらここからが「岡部宿」らしい。「十石阪観音堂」、西行座像のある「専弥寺」を歩き登録有形文化財「柏屋」に来た。施設の中を素通りして写真に収めただけで街道に戻り再び歩きだした。単調な道になって来た。「問屋場跡」を通り「従是西巌村領」の木製立札を過ぎて黙々と歩く。

そして今回は「法の橋」というバス停からJR藤枝駅までバスに乗って帰途につくことにした。次回は此処[法の橋]から再開する。

 

 

 



東海道第7日目

法の橋~島田駅)」「島田駅~掛川駅」「掛川駅~磐田駅」

27928()30()

初日  法の橋1130発~島田着1800分 歩数30240

2日目 島田駅835発~掛川駅着1715分 歩数36264

3日目 掛川駅 8;35発~磐田駅着18:15分  歩数38813

                                                   

京都三条大橋から歩き出した中山道を、平成25115日、2年半かけて無事お江戸日本橋に到達した後、次回はその日本橋から京都三条大橋に向かって今度は東海道を歩いて帰りたいと思っていた。そして27年秋、甥の小西恵二の賛同があって271016日、ついにお江戸日本橋から西に向かって歩き出しました。歩行計画は中山道の時と同様、1ヶ月に1回または2ヶ月に3回のペースを考えています。

 

第一日目 法の橋1130発~島田駅1800分     

27928() 快晴                                                

今回もまた、京都駅856分発「ひかり460号」に乗り、1032分静岡駅着。ここで在来線に乗り換え藤枝駅着。ここから前回離脱した東海道上の地点「法の橋」までバスで行く。

今回は歩数にして10万歩、机上の距離にして51,4㎞、歩数からの逆算距離としては約60㎞歩いたことになる。

今回のKey Wordは、「猫」と「鰻」と「七通り道」。

まず「猫」は久延寺の庭にいた三毛猫。箱根に次ぐ難所といわれる中山峠の長い坂を上がって、一息入れようと休憩に立ち寄ったお寺。まるで待っていたかのように一匹の三毛猫が足元へすり寄って来た。本堂への階段に座った私たちの膝に飛び乗り体を擦りつけて甘えてくるので、持っていたカルビーのジャガリコを与えたら見向きもしない。どうやらお腹が減っているわけではなさそうだ。しばらく休憩した、あとそれじゃ行くよと猫にバイバイした。その時のこの猫の態度は後を慕って追ってくるどころか、遊びは終わり!とばかり一歩も振返る様子は見せず「ハイ、さよなら」とばかり、先ほどまでの甘えはどこかへ吹き飛んでクールそのものの態度だった。

「鰻」これも二日目。「東海道ど真ん中茶屋」の近くにあると聞いていた鰻の店「小太郎」。鰻のお昼を期待して、ここまですきっ腹を我慢してやってきたら、なんと水曜日は定休日。疲れが一度に噴き出して来て体の力が抜けるようであった。

「七通りの道」。三日目、磐田市に入り磐田駅に向かって歩いている途中国道1号線にほぼ並行に走る道の一本に「三ヶ野坂」という坂道があるが、この辺りには七通りの東海道があるという。昭和の道、大正の道、明治の道、江戸の道……といったように、その時代ごとに東海道が作られていたとのこと。実はこの道で大いに迷った。結果的にはどの道でも正しかったことになるが、ここで時間にして1時間はロスした。事前に読んでいた説明本には全くこのことが書かれていなかった。7通りの東海道があると知っていれば、納得してどの時代かの道を選んで歩けたのにー。 

さて初日、藤枝駅には11時に着いた。ここからバス停「法の橋」までは20分以上かかった。今日のスタート地「法の橋バス停」は、藤枝駅まで約5㎞の地点。前回東海道を離れたのはバス停近くのラーメン屋辺りだったのでその地点まで行ってからスタート。

歩き出してすぐに「東巌村領横内」の縦長木製表示柱。「島田13㎞」「江戸より197㎞」「史蹟鬼島一里塚跡」の標柱を見て[須賀神社のクス]がある。いつの間にやら「藤枝宿」に入ったようだ。東海道は中山道と違って、「宿」のけじめがはっきりしていない。「成田山前」のバス停を過ぎた辺りからこの町特有の表示が始まる。例えば電柱ごとに「徳川家康公ゆかりの藤枝」と書かれその上の部分に「さわやか通り」とある。「さわやか通り」の文字はしばらく先に行くと「長楽寺商店街」更に「ちとせ通り」と変わる。「千歳公園」というグランドだけの公園で小休止を摂る。「勝草橋」を渡る。いつの間にかまた国道筋に入っている。

通りの左側に「東海道を旅する方へ」と書かれた家形の木製掲示板があった。「藤枝は東海道22番宿で城下町として栄えました。付近の追分、一里塚といった地名が街道の名残を今に伝えています。松並木を渡る風の中しばしの休憩にご利用ください。又、店内のお手洗いもご遠慮なくどうぞ。お飲み物のご用意もあります。大井川まで西へおよそ二里」。(署名は「さわやか住宅株式会社」となっていた)。

しばらく先からこの掲示板にも書かれていたように松並木が続く。「田中藩領傍示石蹟」「東海道追分」「染飯茶屋蹟」など次々説明板が道路脇に立てられている。「一里山」のバス停辺りは県道22号らしい。「東海道上青島一里塚」の石柱。この辺り、昔は松並木があったようだ。今日の目的地は島田駅だがその前に大井川に架かる木造の橋「蓬莱橋」に行こうとしていた。この橋はギネスブックにも掲載されているのだそうだ。道路脇に立ち止まり地図を見ていたら突然「どちらへ行くのですか」と声を掛けられた。島田県警の婦人警官だった。我々はたまたま交番の前に立ち止まっていたのだ。それにしても親切な警官である。交番に戻って地図まで持ち出してきて丁寧に教えてくれた。

「島田工業高校前」から、「道悦島西」の信号を過ぎる。次に「島田商業高校」を右に見て先へ歩く。そしてついに目的の「蓬莱橋」へやって来た。全長897,4m。「役無し」と読んでくださいと係りのおばさん。14年前にこの橋を渡った人の記述に「20円だったのが50円に値上がりしている」とあったが、14年後の今日,この有料橋は100円になっていた。往復すると約30分かかるという。我々がこの橋に着いた時は、すでに5時の子供帰宅警報のアナウンスがあった後なので、橋の終点まで行って戻ってくるのは不可能と考え、ほぼ中央あたりで引き返した。

ここから今夜の宿泊場所である島田駅近くのホテルへ直行。今回の第一日目は無事終了。


第二日目 島田駅(Hセレクトイン)8:35発~掛川駅1715分着                                           

27929(火朝)

朝、ホテルから昨日離れた東海道筋に入る。芭蕉の句碑、大井神社を過ぎる。「道中飛脚奉納燈籠」は大井川川超えの無事を祈って奉納したとある。[島田市博物館別館]のあたりは「大井川川越遺跡」の通りで、この辺りだけ昔に帰ったような不思議な雰囲気に浸る事が出来る。通りの家々の軒先には「五番宿…六番宿…」といった表札が軒並みに架かっている。また通りにはいろいろな説明看板も…。「番宿」「荷縄屋」「札場」,などなど。また「大井川渡場」の表札は、お茶屋らしき建物の正面に架かっている。「馬方は知らじ時雨の大井川」の句碑。

[島田市博物館]に入る。「たはみては雪まつ竹のけしきかな」。この界隈の句碑は芭蕉が多いようだ。さて大井川の橋を渡り始めた。途中写真を写したりしたが渡り終えるのに14分かかった。橋の長 さは1026.4mだった。渡り終わった処をすぐに左折する。

ここで金谷宿に入ったようだ。10mほどの「八軒屋橋」を渡ると踏切がありすぐ左側に「新金谷駅」が見えてきた。3,4年前バスでSL試乗のため此処へやって来たのを懐かしく思い出した。少しこの駅周辺で時間を潰したあと,金谷駅を通り再び東海道を歩き出す。金谷中町簡易郵便局で恒例の街道貯金。脇本陣(角屋)跡、「お七里役所跡」の立札、金谷の「一里塚跡」看板もあった。金谷駅の裏通りに長光寺あり、その中にも芭蕉句碑があった。「道のべの木槿は馬に食われけり」。

「金谷大橋西入口土橋跡」を過ぎるといよいよ「旧東海道石畳入口」に差し掛かる。その入り口手前に「石畳茶屋」あり、小休止する。(系統塚)巴静という人の「曙も夕暮れもなし鶏頭華」を見る。写真で見た石畳みは、歩き辛かったが楽しかった。上り坂は430mだがそう長くはない。登り切ったところで舗装道路をまたぐ。ここから「石畳下り口」と、両脇のゲートに書かれている。また芭蕉句碑があった。「馬に寝て残夢月遠し茶の烟」。その後、国指定史跡「諏訪原城跡」にかいま立ち寄る。跡と云っても何もない原っぱだけだがー。

「間の宿菊川」に入ったようだ。「日野俊基歌碑」「菊川由来の石」「阿仏尼の歌碑」。間の宿とはいえ菊川は「小夜の中山」の険しい峠を控えた宿場として小さいながら何か息吹をかんじる。小夜の中山へ向かう「やおき坂」は急な登り坂、和田峠程ではないが1㎞ぐらいはあったろうか。登り切った辺りに「夜泣き石」でも有名な真言宗の名刹「休延寺」がある。

小休止のため久延寺境内に入って行ったら冒頭に述べた三毛猫がすり寄って来た。すり寄り方も半端ではない。見知らぬ人にそんなに甘えてお前大丈夫なのか、と言いたいほどの甘えようだ。ところが、ついて来るのを心配していたが、別れ際といったら実にさっぱりしていて「はいさよなら」とばかりに、こちらが大声でバイバイと云っても知らん顔で毛繕いをしていた。

ところで「子育て飴」の扇屋は閉まっていた。峠の頂からは日坂宿への一方的な下りになる。道の両側は見渡す限りの茶畑。この下りは実に爽快。このまま何処までも歩けそうな気がした。古今和歌集、藤原家隆、芭蕉、壬生忠岑、道の左側には次々に句碑が現れる。「夜泣き石跡」の石柱と標識。この辺り下り坂は楽というより急峻過ぎて足にかかる負担が大きくなってきた。「二の曲がり」と「沓掛」の説明板あたりでやっと坂道も終わりに近づいた。広重の「日坂宿」の絵が道端に描かれている。大きな「秋葉常夜灯」を過ぎる。

「日坂宿」へ入ったようだ。「ここは東海道25番目の宿場」と書かれている。「日坂宿本陣跡」の表示看板がある。続いて「問屋場跡」(当時の建物、その他の遺物は現存しません)。「池田屋」「黒田屋」「新藤田屋」などこの宿場の各家の軒先には、多分昔の旅籠時代の屋号がそのまま掛けられている。 そのうちの「黒田屋」は元脇本陣であったらしい。明治天皇がここで2度にわたり小休止されたと表示されていた。

この街並みの西のはずれに建つ「川坂屋」は江戸時代の歴史的建造物がそのまま現存しているということで、インターネット氏の14年前の記事には、中に入ってボランティアの説明を聞いたとあるが今日は閉まっていた。隣接して見学者のための「駐車場」まである。

「高札場」「下木戸跡」を過ぎ、舗装された道路に出たところに「事任八幡宮」があった。(ことのままはちまんぐう)と読むらしい。右側の田んぼ跡にはいま時では珍しく、横並びに刈り穂が掛けられて乾かしてある。丸太をたてて刈り穂を積み上げた方法もあって、小学生の頃疎開していた田舎では、これを「ボート」と呼んでいた。多分正確には「棒搭」だったのだろう。

「塩井神社」「嵐牛蔵美術館」を過ぎると「伊達方一里塚」。掛川氏本所を通り「本村橋」を渡り「博労橋」を渡ると「七曲り」という地区に入る。敵の攻撃を防ぐため街中の道路を右や左に曲げてある。数えてみれば、道を7回ではなく9回曲がった。「二藤町」に入れば「掛川座」という建物があった。芝居小屋のようには見えないが何だったのか未解決のまま。通りを左へ曲がると「掛川駅」。駅に隣接するように「駅からゼロメートル」の今夜の宿所「掛川ターミナルホテル」。

第三日目 掛川駅(ターミナルホテル)8:35発~磐田駅1750分着     

27930()

835分第三日目をスタート。まず向かった先は「掛川城」。「武者隠し」「石落とし」「挟間」…敵を攻撃するために昔の人が考え出した数々の工夫。「二の丸美術館」にも入る。この辺り周辺は「掛川公園」となっている。

再び東海道に戻り歩き出す。「逆川橋」の次に現れた「大池橋」。この橋が安藤広重の描いたモデル橋だ。広重が描いたと思われる同じ場所に立ってみたが、勿論面影はみじんもない。

「掛川市立第2小学校」「芭蕉天神」「白山神社」を抜けると「大池一里塚跡」の表示。「善光寺」はまたの名を東海道のほぼ真ん中という意味で「仲道寺」と呼んでいる。

この辺りから先は「旧東海道松並木」が続く。両側に松の木が残っているだけで如何にもここが旧街道だったという感じが出てくる。

この辺りは「間の宿原川」らしい。「掛川原川郵便局」で例の千円貯金。トータル77千円ぐらいになった。「東海道掛川市境まで1,0km、磐田市境まで6,0㎞」の道路標識あり。あと6㎞が今日これから歩く道程だ。立派な「九津部一里塚跡」の表示がある。「東海道袋井東小学校」と校門の右側の門柱に、「東海道53次どまんなか東小学校」と、校門の左側に書かれている。

ここはもう袋井宿に入っている。市役所前を目前に道を左折、お待ちかねの「東海道どまん中茶屋」が目に入って来た。予期していたように大歓迎で迎えられる。中山道深谷宿手前で会った「あやちゃんの茶店」を想い出した。ここで30分ばかり休憩。

さて待望のお昼ご飯は「うなぎの「小太郎」。その場所を尋ねたら「水曜日はお休み」だとか。疲れがどっと出た。なんと運が悪いんだろう。丸子のとろろの「丁子屋」と同じケース。仕方なく饂飩屋さんに入ったが不味いどんぶりだった。

「袋井宿本陣跡」同じく「西本陣跡」を過ぎる。「土塁」「高札場」「常夜灯」の三つの説明看板が横に並べられているところを通り過ぎる。また袋井西小学校門前を通ったがここも又「どまんなか西小学校」と校門前に書かれている。このあたりは何かにつけて「どまんなか」だ。

「木原一里塚跡」。バス停に「磐田西島」とはじめて「磐田」の文字が出てきた。そろそろ今日の目的地「磐田駅」に近づいてきたらしい。

また松並木の通りに入って来た。この辺りの地名は「三ヶ野」というようだ。しかしここから先で思わぬ問題に遭遇することになろうとはこの時思いもしなかった。この辺りで「鎌倉の道」とか「大正の道」とか表示されていたが、この意味するところがこの時点では分からなかった。いわゆる「旧東海道三ヶ野坂」では、1kmほどの間、時代ごとに作られた7つの道が枝分かれして存在するということなのだ。説明本にも地図にも説明されていなかった。間違ったと思って引き返した道は7つのルートの一つなので、決して間違ってはいなかったということは後になって知ったと言う訳だ。林の中に「歴史がうつる三ヶ野七つ道」と書かれた説明ボードがあったのでやっと理解できた。

この辺りで見付宿まで2,3㎞。「静岡県立浜松特別支援学校磐田分校」前を過ぎ、松並木を過ぎると「従是西見付宿」更に「旧東海道行人坂」、富士見町では「秋葉灯籠」、「見付宿木戸跡」と続き「東木戸と書かれた木製のゲートがあった。既に見附宿に入っており「見附本通り」という文字が道路上に埋められている。中川橋を過ぎると「本陣跡」の縦長表示板があった。再びもう一つの「見付宿」の木戸をくぐる。

「県社府八幡宮」の鳥居前を過ぎたころは日が陰り、薄暮の気配が濃厚になっていた。この辺りで標識は「磐田駅まで1㎞」。「市役所」「磐田農業高校」の表示看板を過ぎると磐田駅は近くだった。

 

東海道第8日目

「磐田駅~浜松駅)」 「浜松駅~新居駅」

271017()18()

初日  磐田駅1030発~浜松着1540 歩数28601

2日目 浜松駅835発~新居駅着1550分 歩数28264

京都三条大橋から歩き出した中山道を、平成25115日、2年半かけて無事お江戸日本橋に到達した後、次回はその日本橋から京都三条大橋に向かって今度は東海道を歩いて帰りたいと思っていた。そして27年秋、甥の小西恵二の賛同があって271016日、ついにお江戸日本橋から西に向かって歩き出しました。歩行計画は中山道の時と同様、1ヶ月に1回または2ヶ月に3回のペースを考えています。

第一日目 磐田駅1130発~浜松駅1540分     

271017() 快晴                                                

今回もまた、京都駅856分発「ひかり460号」に乗り、105分浜松駅着。ここから在来線に乗り換え「磐田駅」に向かう。1021分磐田駅着。今回は歩数にして約5,7万歩、前回より歩数は少なかった。

今回のトピックスは、「橋」と「グルメ」
前回は「大井川」という東海道とは切っても切れない話題の橋を渡ったが、今回渡った2本の橋、「天竜川に架かる橋」と「浜名湖に架かる橋」も大井川に負けず劣らずの1㎞級の豪快な橋であった。

前回は「東海道どまんなか」地点で、期待していた鰻の店の休業日にあたり落胆したが、今回は鰻の本場浜松近郊で2度の鰻と、海の幸一杯の海鮮丼に舌鼓を打って大満足した。



さて今日も天候には恵まれそうだ。磐田駅前の「大楠」を左手に見ながら1030頃にスタート。一路西に向かう。「中泉」地区の表示ボードあり。「県道261」「万能橋」の信号灯を通り過ぎほどなくして「宮之一色一里塚」跡が右手に見える。続いて「常夜灯」。暫くは県道261号を歩く。「郷社若宮八幡宮」豊田町の「長森立場跡」。この辺りは道路標示が細やかで表示ボードがひっきりなしに現れる。そうこうするうちに「天竜川」に差し掛かった。インターネット氏によれば歩道がない「恐怖の天竜川橋」ということであったが14年後の今日、橋が2本あり、幅が3mほどありそうな立派な歩道が出来ていた。インターネット氏が渡った14年前は、横にもう一本ある橋しかなかったのだろう

。その橋はなるほど歩道がなく車が猛スピードで走っていた。橋を渡り終えた辺りは「横町通り」と云って昔は小料理屋や銭湯、床屋、魚屋などで賑やかな通りであったらしい。つい150年前のこの界隈の景色を思ってなんともいえぬ感慨に浸る。この辺りから「東海道・お休み処協力隊」と書かれ、休憩用のベンチが置かれた場所が次々に現れる。旅人に親切な街だ。


「明治天皇玉座迹の碑」明治11年、ご巡幸途次、明治天皇が休憩された場所だという。まさに宿場町雰囲気の道路から少し入った処に鰻屋さんを見つけた。「中川屋」。お腹もすいてきたころでタイミングがばっちりだった。一見静かなお店に見えたが入ってみると混んでいる。こんな店はおいしい筈だと感じた。鰻の本場に近いだけあって十分満足できた。「伊豆石の蔵」「東橋跡」「石垣清一郎生家」「軽便鉄道軌道跡」…この辺り説明ボードに次々お目にかかる。金原明善さんの生家と記念館前に来た。記念館の方は閉まっていた。

この辺りの少し先から松並木道路に差し掛かった。松並木と云っても密生してはいないが旧街道だったという雰囲気は出ている。安藤広重描く「浜松宿」冬枯れの図の絵が架かっている。すでに浜松宿に入っているのだ。「琵琶橋」を過ぎ「馬込橋」を越える手前あたりに「馬込一里塚跡」。


先ほどから
遠くの方にロケットのような大きな建物が見えている。何だろうと思っていたがその近くにやって来た。町の人に聞けば「アクトタワー」とか言ってイベントなどをする建物のようだ。浜松市内のメルクマールとしての役割は十分果たしている。




「鍛冶町通り車両通行禁止」の立看板。日付は今日だ。この意味は少したってからわかった。



さて予定していた「浜松城」は、今日中に見学しておこう。まだ4時前だ。ということでお城に向かう。家康が永年住んだというこの城は、広さ高さともスケールの小さく整った、戦のためのお城というより住まいのためのお城という感じだった。

 

日目 浜松駅(浜松宿)830発~新居駅(新居宿)16:00分着                                        

71018() 快晴

今回は一泊2日。今日は2日目。

830分勇んでホテルを出発。すぐ東海道に入る。
「成子」「菅原町」の信号を過ぎ「舞坂11㎞」の傍示を見る。「遠鉄よろい橋」のバス停。「鎧橋」を渡る、と云っても10mもない橋。「一里塚跡」の石柱。(江戸より66)の文字が側面に見える。「二つ御堂」は藤原秀衡のお堂。その横に「高札場跡」と「馬頭観音」の木碑。
また国道25号に入る。
「舞坂10㎞」の交通表示。「熊野神社」の前を過ぎる。遠鉄のバス停表示は「高塚東」となっている。この辺りで舞坂までは7㎞だ。


 また「熊野神社」があった。「篠原東」のバス停を過ぎ「立場跡」の標識を見る。「立場は宿場と宿場の中間休憩施設として設けられました」。しばらく行くと「篠原郵便局」があったが今日は日曜日のため街道貯金は出来ない。「高札場跡」の家型表示。「篠原小学校」「愛宕神社」。「県道316号」に入る。「遠鉄バス停坪井」「稲荷神社」道路標識は「県道49号」に変わっている。「舞坂駅南入り口」の信号表示を過ぎしばらく行くと、お待ちかね「舞坂の松並木」に差し掛かった。
全長700m400本の松。中山道も含め今まで歩いてきた街道筋ではここの松並木が一番美しい。ビデオを回し写真を撮りゆっくり松並木を楽しんだ。「史蹟見付石垣」の説明標識には「…この石垣は舞坂宿の東外れに位置している」とあるのでいわゆる「舞坂宿」はここから西に向かって広がっているということになる。ということは、我々はこれから舞坂宿へ入ることになる。
また「一里塚跡」があった。
日本橋から68里の位置だという。近くに「文久2年東海道舞坂宿・宿内県別書絵図面」というタイトルで彫られた横長の石碑があり、「辰二郎」とか「林助」とか、今で言えば町内の住居表示板に名前がずらっと彫られている。石造りの立派な常夜灯もあるが、この舞坂宿では何といっても一部が現存する「東海道舞坂宿脇本陣」が貴重であろう。書院棟が天保9年の建築だという。写真のように建物の入り口の両脇には大きな提灯が掲げられていた。


さてお昼時になった。「魚あら」という店が目に入った。表の椅子には順番を待つ人が数人。中に入ればそこにもまた順番待ちの人々。意を決してこちらも待つことにした。土地勘がない者にとっては何処に食べ処があるのかわからない。待った甲斐あって結果的には新鮮な魚を食べられて満足した。お腹もふくれ今日の終着点新居駅に向かって改めてスタート。

「弁天神社」「弁天島駅前」「弁天島海浜公園」のゲートを横目に見て「新居2.8㎞」の距離表示を見て歩く。この辺りで日本橋から273㎞。「新居関所1,5㎞」の表示板を過ぎればJR新居駅が右手に現れた。


           東海道第9日目

「新居駅~二川宿)」 「二川宿~豊橋駅」

271110()11()

初日  新居駅1040発~二川宿1740 歩数28347

2日目 二川宿830発~豊橋駅1500分 歩数22864

京都三条大橋から歩き出した中山道を、平成25115日、2年半かけて無事お江戸日本橋に到達した後、次回はその日本橋から京都三条大橋に向かって今度は東海道を歩いて帰りたいと思っていた。そして27年秋、甥の小西恵二の賛同があって271016日、ついにお江戸日本橋から西に向かって歩き出しました。歩行計画は中山道の時と同様、1ヶ月に1回または2ヶ月に3回のペースを考えています。

第一日目 新居駅1040発~二川宿1740

271110() 晴                                                        

今回もまた、京都駅856分発「ひかり460号」に乗り、105分浜松駅着。ここから在来線に乗り換え「新居町駅」に向かう。1035分新居町駅着。

今回のトピックスは、「新居関所跡」と「二川宿本陣資料館」
街道そのものは「潮見坂」以外はさしたる特徴もなく、ほとんどすべて舗装道で国道1号線ないしはそれに沿った道が多かった。一つだけ言えば第三回目に入った静岡県から今回の第九回目で、長かった静岡県をやっと通り抜け愛知県に入ったことだ。

また敢えて言えば、東海道行脚をスタートして以来、初めて私が体調を崩した。昨夜なぜかほとんど一睡もできなかった。今日は朝から珍しく胸やけに悩まされ気力が湧かなかった。胃が荒れていることと、少し風邪気味であるようだ。アクセスの関係も相俟って、残念だが予定していた「御油宿」の手前「豊橋」から引き返すことになった。

予定半ばで帰るのは、中山道の途中、靴擦れから足の甲がはれ上がり「望月宿」から帰って来て以来のことである。

さて今日も天候には恵まれそうだ。浜松を経由して新居駅着は1036分。すぐに歩き出す。歩き出しの駅前の「海と関所の街湖西市」の表示板の架かっている通りは歩道の横の一段高いところにプロムナードが作られて気持ちのいい散歩道だった。

取り敢えず今日はまず史跡「新居関所」に向かう。有料であるが資料館ともどもこの種の記念館の展示としては上の部に入るようだ。向かいの旅籠「紀伊国屋」も覗いてみる。ここも資料館を備え立派に整理されてあった。

「疋田八郎兵衛本陣跡」を過ぎる。この宿には本陣が三軒あったという。徳川ご三家が愛用したというからには、多分ここはもっともメジャーな本陣であったのだろう。「寄馬跡」「一里塚跡」更に、大名行列が宿場に入る手前で隊列を整えた場所である「棒鼻跡」を通り、「浜名旧街道」と書かれたあたりは松並木が繋がり少し感じの出る通りであった。松並木が途絶え少し先に行くと「明治天皇御野点所址」の説明板、「火鎮神社」あたりでは既に「下須賀宿」に入っているのだろう。キャベツ畑が一面に広がる。整然としているさまは、畑の感じを越えてむしろ美しい絨毯みたいだ。「一里塚跡」「高札場跡」もう4㎞歩いたのか。

「おんやど白須賀」の看板を過ぎるといよいよ今日のルートで唯ひとつある急坂「潮見坂」に差し掛かる。坂の途中で振り返ると遠州灘がはるかに美しく見えた。その昔、東海道を西から東へ向かう旅人が、初めて富士の姿を見るチャンスがあった場所がこの潮見坂だったと云う。坂を登り切った左側に「おんやど白須賀」という無料休憩所があった。ここで小休止。歩き出した右側に中山道でも見た防犯標語
 「いかのおすし」の表示看板があった。「いかない。のらない。おおごえをだす。すぐにげる。しらせる」。「潮見坂上の石碑群」の説明看板には明治天皇が明治元年この地で休憩されたとある。明治元年ということは即位された年にここへ来られたということになる。続いて「曲尺手」の通りに入り込んだ。

当方にはスマフォと詳細地図で武装した、頼りになる相棒がいるので迷わずに済むが、角ごとに掲示があるわけではないこの曲尺手通りを、間違いなく歩ける人は数少ないのではないだろうか。郵便局があったので例の千円貯金。もう30局以上の郵便局の前を通り過ぎたことになる。二川宿へ入るまでの国道沿い、ガードレールに隠れて見えにくいところに、静岡県と愛知県の兼境の碑が足元にあった。  

国道1号線の表示には名古屋83㎞、岡崎44㎞、豊川21㎞。風力発電だろうか縦長の風車が立つ「シンフォニーテクノロジー」と書かれた大きな建物の前に差し掛かったころは、日も西に傾いていた。そろそろ今日の目的地「二川宿」に近づいてきたようだ。今日は二川駅から豊橋駅まで電車に乗り、豊橋駅近くのホテルに入る。

 

第ニ日目 二川駅(宿)1040発~豊橋駅(宿)1445分  

                              271111(水)

豊橋駅から電車に乗り二川駅に戻る。駅前の時計は95分過ぎ。まず豊橋市二川宿本陣資料館」に立ち寄る。ここはゆっくり時間をかけて見学した。本陣建物で驚いたことは、その畳部屋の数の多さだった。6畳から8畳さらには大広間、一つ屋根の下に襖だけで仕切られた大小合わせていくつの部屋があるのだろう。  

 

立ち去る時、常夜灯時計の針は1015分を指していた。「商家駒屋」も見学できるというので、進行予定方向とは逆方向に300mほどバックする。見学後「西問屋場跡」を通り再び西へ向かって歩き出す。また郵便局があった。

この日実際に二川駅を歩き出したのは11時を3分ほど過ぎていた。「火打坂」を通り「岩屋緑地」を過ぎ、「殿田橋」を過ぎて回転すし屋があったのでここで昼食。

一号線の表示看板に「伊良湖岬」の文字を見て随分歩いてきたのだなあということを実感する。車通りからいつの間にか住宅地内を歩いている。この辺りは見るべきものも少なく単調なウオーキングになる。旧街道もいついつも変化に富んで刺激の多い道ばかりではない。
       1950年頃の飯村の松並木

「東八町」の交差点を左折する時、赤と白のツートンカラーの市電を見た。市電を見るのは何年振りだろうか。通りの中央分離ゾーンに「吉田宿」と書かれた石柱を見る。白いビルは「豊橋市役所」。「札木」の表札を見たが、このあたりが豊橋市のほぼ中心らしい。案内書で読んだ「菜飯田楽」の「きく宗」を探す。やっと見つけたその店はなんと「本日休業」。これで東海道を歩いて尋ね探したお店が休業であったというのは三軒目だ。

「松葉公園」で小休止。時間はまだ3時になっていないが、私の体調と鉄道のアクセスの関係で、今回は此処から帰途につくことにした。








       東海道第10日目

       「豊橋駅(名電)赤坂駅)」 「赤坂駅~美合駅」

       271215()16()

       初日  豊橋駅1030発~赤坂駅1740 歩数27440

       2日目 赤坂駅830発~美合駅1500分 歩数26756

今回の特記事項。

   ①前回火曜休業で行けなかった豊橋駅近くの菜飯田楽の「きく宗」へ行った。お店へ行ったのは10時半ごろであったが開店は11時からとのこと。千載一遇の機会を逃すのは悔しいから11時まで待つことにした。その為今日の街道ウオークのスタートは正午前になった。

   2日目:名電山中駅の近くで道に迷った。詳細案内地図と最新兵器のスマホで綿密にルートを探索して歩いていても、迷うことがあるのだ。「階段を下りる」という説明だが、その階段は実際には進行方向の逆側から下りるようになっていたのが見誤る原因だった。道行く人に尋ね、引き返して正道を捜し、迷いに迷ってやっと国道の向こう側へ続く地下道を見つけた。これが正しい路だった。「国道の向こう側へ渡る」という一文さえ書かれていれば問題はなかったのだ。山道が多い中山道より、道路が多すぎる東海道はかえって迷う機会が多い。

              第一日目 豊橋駅~赤坂駅

さて初日は先述したように豊橋市内の「きく宗」へ立ち寄り「菜飯田楽」を食べに行ったため、スタートが昼前になってしまった。

宿名で言えばここは「吉田宿」。まず前回の終着地「松葉公園」に行き、本日の東海道行脚はスタートした。今日最初に渡った大きな川は「豊川」(とよがわ)。「豊川稲荷遙配所拝所」の石碑前を通る。

芭蕉の句碑があった。「こを焼きて 手拭 あぶる 寒さ哉」。

「下地」の信号からしばらく先に舗装路の中に立つ一本の松の木に「東海道名残の一本松」と書いた札が架かっていた。そして次に差し掛かったのが弥生時代の竪穴住居で史跡指定の「瓜郷遺跡」。ここで二人の記念写真を撮った。「豊橋魚市場」を左に見る。「豊川放水路」を渡る。「才ノ木南」の信号、さらに進んで郵便局、「ガーデンテラス・フローリス」のすっきりした看板。その文字の下に「郡言堂」と書かれている。郡言堂は京都北白川松田町にあった少し洒落た婦人雑貨の店だ。

 

通りに面して太鼓屋さんがあった。山本太鼓店。私には太鼓の専門店を見るのは大変珍しい。珍しいというより多分初めてだ。太鼓店の近くに立つ石碑に「江戸より75里」と書かれたい1里塚が建っていた。東海道をここまで300㎞歩いてきたのだなあとちょっぴり感慨にふける。

「小田渕駅」の表示が見えた。「山桃」の信号を越えると1号線の表示は「名古屋62㎞」になっている。またしばらく歩くと「ひまわり農協」の建物が見えてきた。国府交番は明るくてこざっぱりしていた。この辺りは住宅街だ。20メートルもありそうな木製の柱をリヤカーに乗せて5人の男性が運んでいる。「今日はお祭りなのでつい先の神社までもっていくのだ」と云う。

道際に立つ「御油一里塚跡」の石碑がまだ新しかった。「これより姫街道」と書かれた木製の碑。矢印は逆の方を指しているので、我々が今歩いてきた方向が姫街道なのか。小さな「御油橋」を渡ると「御油の松並木700m」の石碑が建っていた。そして松並木へ行くまでに「高札場跡」と「問屋場跡」があった。そしてその先に私としては初めて接した「御関札立掛場」の掲示を見た。参勤交代の大名が留まる宿場には、大名の宿泊先や藩主名などを記入して立て掛け、町民に知らせるためだったという。

さていよいよ「御油ノ松並木」に差し掛かった。御油宿と赤坂宿の間、600mの区間に12年前の統計では271本の松が揃っていたそうだ。東海道中膝栗毛の中で弥次郎兵衛と喜多八が此処で狐に化かされた話があると聞く。新居宿と二川宿の間にあった松並木、浜名湖畔近くの舞坂の松並木に続き3つ目の松並木だ。「芭蕉(夏の月)の句碑」を過ぎ「本陣跡」の標識を通る。この辺りはすでに赤坂宿に入っているようだ。秋の夕はつるべ落とし“と言われる。日が短いこの頃、午後3時を過ぎればなんとなく夜の気配が匂ってきてうら寂しくなる。

今日は名電赤坂駅から電車に乗り予約してある宿のある東赤坂駅に向かう。

     


       
               第二日目 赤坂駅~美合駅

岡崎セントラルホテルは東岡崎駅からは目と鼻の距離だった。すぐに昨日の終着地点の赤坂駅に向かう。この宿には有名な[大橋屋]がある。1716年建築と言われるのでちょうど300年前と云う事になる。今では豊川市の指定建造物になっている。

大橋屋からそう遠くないところに昨年オープンしたという「よらまい館」があった。旅人のための無料休憩所だ。「豊川市立音羽中学校」の前を過ぎる。続いて豊川市立長沢小学校」の校門前を過ぎる。「長沢町西千束」の信号機の近くに「313,6㎞」の表示があった。そして「岡崎市」の看板。岡崎市に入ったのだ。

暫く先に行くと新しい石碑に「自然と歴史を育む町本宿」と彫られている。本宿は東海道53次には出てこない名前。いわゆる間の宿で宿泊施設が認められていなかった宿場。間の宿ではあるが「本宿」は旅人に向かってのPRは積極的なようだ。入り口には「是より西本宿村・藤川宿へ1里」と大きな説明板がある。

冠木門をくぐり、暫くの間名鉄の線路と並行して歩く。「本宿の歴史と文化を訪ねて」の表示板の横には「右国道一号・左東海道」の大きくて新しい石碑が立つ。「法蔵寺橋(大正910月架換」のちかくに「法蔵寺」がありこのお寺には「近藤勇の首塚」がある。誰もが(何故ここに近藤勇?)と思うだろう。この地のお寺のお坊さんと近藤勇が友人だったからだとかー。このお寺では20分ほど時間をとった。「本陣史跡保存会」の石碑の片面には「一里塚跡」と彫られている。「是より東本宿村」の大きな表示板がありここが本宿の西の端であったことがわかる。

暫く先の信号機に「東海中学校入り口」。また先の信号に「山中小学校北」と書かれている。信号機表示に小・中学校の名前をよく見かける。次に目にしたのは「是より西藤川宿へ」の説明板。遂に藤川宿へ入ったようだ。いつのまにか国道一号線に入っている。この辺りの一号線は何故か車が少ない。

「東棒鼻」へやって来た。「棒鼻とは宿場の出はずれ、すなわち出入口のことである」と、丁寧な説明があるので初めて接したこの言葉をよく理解できた。ここから藤川宿が始まる。(京へ46里27丁 江戸へ78里29丁)と屋根型の掲示板。「津島神社」「称名寺」の前を過ぎ「米屋」の古い建物を過ぎる。「本陣跡」はきれいに整備されている。「本陣跡」「高札場」跡の説明ボードはまだ新しい。「藤川宿脇本陣跡」は今資料館になっている         中に入って一通り見学させてもらった。脇本陣の石碑は例えが悪いが墓石のように見えた。

「岡崎市立藤川小学校」の近辺にはさまざまな表示ボードがある。「西棒鼻跡」のボード。ここは広重が「藤川宿を描いた時に取り上げた場所だ。

ここでいきなり声をかけられた。「東海道ご苦労様です」。声の主は中年の女性。「この学校の先生ですか?」「はいそうです。」「この町は旅人には優しい街ですね」「そうです。日曜日だったら米屋さんで楽しいイベントもあるのですよ。お気をつけて!」。多分女性の教頭先生かな、と考えた。芭蕉句碑と一里塚の表示板があったが、句碑の方は見つけられなかった。「吉良道道標」の屋根型看板の文字は古くなって読みづらい。

「愛知県立岡崎東高等学校」の大きな立看板を過ぎるといよいよ岡崎市指定文化財になっている天然記念物「藤川の松並木」に差し掛かる。東海道を歩いてこれが主な4つ目の松並木か。松の木の数はそれほど多くはないがその一本一本に虫よけの麦わらが丁寧にまいてあった。天然記念物と云う事でメインテナンスはきっちりしているようだ。
藤川町西の信号灯を過ぎると「さかしたはし」。陽は落ち始め“彼は誰どき”のわびしい空気が匂う頃「美合新町」の信号機に差しかかった。

今日のウオーキングはここまでにしてこの四つ角を駅のある方向左へ曲がる。次回はここ(右写真)からスタート。 +








東海道第11日目

「美合駅(名電)宇頭駅~左京山駅~神宮前駅」

28216()18()

初日  美合駅1030発~宇頭駅30分 歩数26082

2日目 宇頭駅905発~左京山駅40分 歩数30008

3日目 左京山駅912発~神宮前駅1525分 歩数22363

   今回の特記事項。

  ①高校同期で、名古屋で開業医をしている前田清氏が初日と3日目に同行してくれた。昨年秋の同窓会で会った時、名古屋1辺を通過するとき知らせてくれと言われていたが、一緒に歩くことになることは予期していなかった。初日は美合駅から岡崎城まで、3日目は鳴海駅から神宮前まで同行、熱田神宮とその近くの有名なうなぎ屋「蓬莱軒」に案内してもらった。

  2日目に通過した有松宿の佇まいに感銘した。数百メートルの街並みだが深く印象に残った。

       初日  美合駅1030発~宇頭駅30分 歩数26082

先日離れた東海道沿道の「美合新町」の交差点から今回の行脚はスタートした。 

専光寺・上野山」の門前を通過、次に出会った「史跡・大平一里塚」は、今「国指定文化財」になっている。ここは街道の片側だけではあるが、小山が作られ木が植えられている。その後、国道一号に合流する。前田氏が前方の電柱看板を見て「あそこへ行ったことがある」と指さす。見れば「Tradition」というゴルフ場の立派な看板。暫く歩くと国道を向かい側へ渡る地下道がある。中山道にもこんな地下道が12ヶ所あった。

「法光寺」の前を過ぎる。「岡崎城下27曲り」の説明ボードには道順が細かく書かれている。「若宮町2丁目」の信号を過ぎると、いよいよ「27曲り」の道に入る。「これより次の両町角まで650m」と書かれた、人の背丈より高い立派な標識が街道端に立てられている。「岡崎げんき館前」の名鉄バス停を過ぎる。「曹洞宗・根石原観音堂」当時の菩薩像は行基の作といわれる。「㋺これより両町角まで310m」の表示柱。こんな表示柱が各曲がり角に立てられている。この表示柱がもしなければ正しく旧街道を歩くことはとてもできないだろう。この表示を何度も見て、右に曲がり左に曲がり「傳馬通り5丁目」の信号に来た。更に「伝馬町」の信号を過ぎ大きな文字で書かれた「備前屋」の前を過ぎる。歩道際に「左信州道」と彫られた古い1mほどの石柱がある。調べる間もなく通り過ぎたがここで遙かなる(信州道)が何故登場するのだろう。

「岡崎宿傳馬」の石碑も崩れそうに立っている。「朝鮮通信使」と彫られ異国情緒の男女が並んでいる石像もある。「岡崎宿27曲り西本陣前角」の石碑。しかしまだまだ例の27曲りの表示柱は続いている。勘定していないがこれで何度曲がり角を過ぎたのだろうか。「田中吉政」の石造前を過ぎる。16世紀末頃の岡崎城主だった人だ。

「岡崎城下27曲り・篭田町より立尺町角」と書かれた石柱を過ぎる。しかしまだ27曲りは終えていない。「い」から始まった標識は、今目の前にあるのは「ち」だ「木まち通り」の標識を過ぎると街中の小さな川べりに入った。堤の道に植えられた樹木は多分桜であろうが今は枯れ枝ばかり。でも単調だった心を和ませてくれる。

「伊賀川」を越えると「を」があった。27曲り道はどこまで続くのだろう。最後は「を」だったのだろうか、岡崎城近くへ来た。一期一会、岡崎城はゆっくり見学する。「竹千代」と「家康」の石の座像が並んで座っている。城内に「木のもとに汁も膾も左久良哉」という芭蕉の木碑がある。民家の壁際に「よ」があった。此処こそ最後の表示かな?否、まだ「れ」があった。い、ろ、は…と数えて行けば「れ」は17番目になるので、あと「く」までは10ヶ所あるのだろうか。

八丁味噌の本舗「カクキュウ」の本店前へきた。中に入って一番小さい味噌を一つだけ購入。何しろお味噌は比重が高いので小さい包みでもずっしり重い。旅装束には重さが敵だ。さて。岡崎公園駅から帰るという前田さんとはこの辺りでお別れする。

「勝蓮寺」「岡崎市立矢作東小学校」「誓願寺十王堂」「竊樹(せつじゅ)寺」「福萬寺」「和志王山薬王寺」と引き続いてお寺の前を通る。このあたりお寺が多い。

「宇頭町」の信号にやって来た。今回の初日のウオークは,鉄道とのアクセスの関係もあって名鉄「宇頭町駅」までにして駅の方へ左折する。明日はこの信号角からのスタートになる。

 

             2日目 宇頭駅905発~左京山駅40分  歩数30008

昨夜は宇頭駅から電車で知立駅まで行き駅近くの「ホテルグランパレス知立」に泊まった。

宇頭駅から昨日の信号機のある交差点まで行き、今日の東海道行脚はスタートした。845分ごろになっていた。宇頭駅は典型的な田舎の駅といった感じ。

歩き出してすぐに「岡崎市立矢作西小学校」の前を通った。昨日は矢作東小学校前を通った。国道に出る。すぐ「安城市」の標識を見る。松林がある。パラパラとした松並木であるが、やはり旧街道を彷彿されてなかなか良いものだ。「尾崎町東」のバス停。「志貴小学校」の信号灯表示。「予科練の碑」は真っ直ぐ街道に面している。「宇頭茶屋」の信号。「明治天皇の石碑」。「永安寺」と「永安寺の雲流の松」。「通水百年記念碑・清流保悠久」の大きな石碑」。

道の向かい側に神社がある。樹木は多くはないが、また松並木があった。「里町4丁目東」の信号灯。「本元奥州青麻神社」と彫られた古い石碑。「里町4丁目西」の信号表示。

郵便局があった。1000円貯金。本町8丁目から4丁目に至る。「來迎寺公園」に来たのでここで小休止。インターネット氏も12年前ここで小休止をとっている。ほぼ向かい側に「御鍬神社」。少し先には文字が薄れて読むことが困難な石碑があった。そして「來迎寺の一里塚」にやって来た。ここは街道でも数少ない(道の両側に残っている)「一里塚」である。ここは榎が植えられているようだ。

次に有料道[衣浦豊田道路]のガード下を潜って歩く。そしてまた松並木に出会った。「知立の松並木」だ。ここでは「池鯉鮒」と書かずに「知立」と書かれている。こういった歴史的な場所では「池鯉鮒」の表記が似つかわしいと思うのだが…。周辺の街道沿いには様々なモニュメントが置かれている。「人形像」「片目の鯉」、馬の像と共に「馬市の址」の石碑や、馬市の句碑。

道路際に「東海道池鯉鮒宿」と彫られた新しい石碑。「中町」の信号を過ぎると「問屋場之跡」の石碑。少し開けた公園のような空き地に「知立古城址」の丸く2mありそうな背の高い石碑。「総持寺跡大イチョウ」「知立神社」「知立不動尊」を過ぎると「逢妻川」。橋を渡り「逢妻町の信号」ではすでにいつの間にか1号線に合流している。

「子安地蔵尊霊場」を過ぎ「いもかわうどん」の説明板が目に入った。「江戸時代の東海道の紀行文に出てくる(平うどん)が伝わり、今では東京で、うどんのことを「ひもかわ」という」。…知らなかった。「富士松駅」のそばを過ぎる。今日はもう少し先まで歩く予定。今川町の歩道橋を渡り、境川を渡り、豊明駅前も過ぎる。

「阿野一里塚」にやって来た。ここは国指定史跡だという。「豊明小学校」「豊明郵便」、これらは「トヨアケ」と読むようだ。郵便局に出会えば千円貯金をしている。日本橋から数えて43局目に当たるこの「豊明郵便局」では不愉快な思いをした。指示通り順番々号を取って待っていた。3人の窓口係員の女性がいて、一人はお客の応対をしている。あとの二人は自分のデスクで何か事務仕事をしているようだが、10分以上待たされたがなかなか声がかからない。応対待ちの客はまったく無視されたままだ。あまりにも待たされたので、順番メモをきっちり4つに割いて窓口において出口に向かった。

「前後駅前」の信号灯を過ぎる。駅名が面白い。

ほどなくして「桶狭間古戦場址」にやって来た。今川義元が織田信長に敗れた戦場跡だ。ここでは休憩を兼ねてしばらく見学することにした。64日と5日には「桶狭間古戦場まつり」が開かれるという大きな看板が目に入った。小さな「有松郵便局」があった。千円貯金が10万円に近づきつつある。ちりも積もれば山とやら。千円は決してチリではないが…。

ここから「有松」の通りに入る。この古いたたずまいの街には感銘した。虫篭窓の家々、広い間口の旧家、何だろう?各家の外側の格子の枠には手作りらしい人形が吊り下げられている。今NHK火曜22時から放送している田中麗奈と秋吉久美子のドラマの舞台にもなっている「有松しぼり」の本場だ。写真を何枚も撮った。「中桝竹田荘」の説明板には「…旧東海道の歴史的な街並みを伝える貴重な建物であり…(有松まちなみ保存ファンド基金)を活用し…外観は江戸期の様式を再現しました」と書かれている。「文章嶺天満宮」の大きな石碑に続いてやはり石造りのこれも大きな常夜灯。

梅屋鶴寿の句碑「あり松の柳しぼりの見世にこそ しはしと人の立ちとまりけれ」。梅屋鶴寿という人は幕末の狂歌師。「有松の一里塚」に差し掛かる。この一里塚は大正13年一時なくなった様だが平成24年復元されたという。

「スーパーマーケット左京山」を過ぎ「四本木」の信号を通り過ぎると「左京山駅」に出た。今日はここから金山総合駅まで電車に乗り駅近くの「サイプレスガーデンホテル」に宿泊の予定。


           






 3
日目 218日(木)左京山駅912~神宮前駅1525

               歩数22363

金山総合駅周辺は通勤客で賑わっている。駅名もこの賑わいも私にとっては未知のものだった。電車に乗り昨日の終着点左京山駅近くの東海道へ向かう。

歩き出してすぐに郵便局に出会った。千円貯金。「平部北」の信号を過ぎると「平部町常夜灯」文化3年(1806)に建てられたもので街道では大きく華麗な常夜灯といわれている。

どうやら「鳴海宿」に入ったようだ。何だろう?道端にある一本の松の木の前に男と女の旅姿を彫った大きな石がある。「中嶋橋」「瑞泉寺」を過ぎると「鳴海駅」近くに出た。今日は此処で一昨日に同行した前田清氏と落ち合うことになっている。後でわかったことだが、線路と並行に流れている川に3本の橋が架かっているが、西側の橋で待っていればよかったのを、私たちは最も東側の橋の上で待っていた。これが間違いだった。直接携帯で連絡できなかったこともあってここで少し混乱した。相棒の恵二がもと来た道を数百メートル戻って探しに行き、また近隣の公園まで探しに行った。幸いにもこのあと、先に進んだ地点で前田清さんと出会う事が出来、今日もまた3人で歩く事になった。「本町」「作町」「三皿」の信号を過ぎ「丹下町常夜灯」まで来たが、既にこの位置は鳴海宿の西の入り口になるらしい。「平部の常夜灯」が東入口、ここ「丹下町常夜灯」が西入口になるようだ。「天白橋」という小さいがきれいな橋を渡る。

「笠寺の一里塚」に出た。江戸から88里、我々も360㎞歩いてきたのだ。真言宗の笠覆寺は大きく立派なお寺だった。このあたりは「呼続(よびつぎ)」と言われる地域のようだ。呼続小学校前を過ぎ、熊野三社の鳥居を過ぎ、山崎川の橋を渡る。陸橋を渡ると「八丁畷の由来と松田橋遺構」の説明板がある。このあたりは「宮地区」と称している。「裁断橋址」「都々逸発祥之地」の石碑を見て「伝馬町・旧東海道」のアーチを潜る。そして前田氏にご馳走になった待望のうなぎ屋「蓬莱軒」に来た。ひつまぶしがとても美味しかった。

七里の渡し舟が出る「宮の渡し公園」に来た。「松尾芭蕉と七里の渡し」「宮の宿とシーボルト」、案内ボードが旅人に親切だ。ここで3人の記念写真を写した。

そして今日最後の予定地であった熱田神宮に向う。参拝のあと近くの[神宮駅]から帰路に付いた。
















                          
  
                           東海道第12日目  

                                     284.2()3()

初日  桑名駅1030発~四日市駅1740分 歩数25928

2日目 四日市駅830発~井田川駅1505分 歩数31135

前回は宮宿まで歩いた。本来の東海道は、宮宿から対岸の桑名宿までいわゆる「七里の渡し」で船に乗って渡り、桑名宿から陸路を歩くのであったらしいが、今は「七里の渡し」無い。この間は、観光用に年に二日だけ秋に渡し船が往来している。(私も22日の受け付け日の朝一番に申し込んで、116日に乗船することになっている)

さて今回は名古屋経由で桑名駅に行き1030分この駅から歩き出した。前回も会った前田氏が今回も駅に来てくれて、「桑名の渡し」と、有名な饂飩屋さん「歌行灯」を案内してくれた。今日の行脚はまず贅沢な昼ご飯を食べてからスタートすることになった。

 

第一日目 桑名駅1030発~四日市駅1740分                                             

2842() 晴

今回もまた、京都駅856分発「ひかり460号」に乗り、1016分桑名駅着。今日の東海道は、ここから四日市駅方向に向かう。

まず「七里の渡し場跡」に向かう。渡し場の公園には駐車場もあって人出も多く、ある種の活気も感じられる。旧東海道と海岸の交点が船が着く場所の筈、それらしきところには鳥居があった。鳥居の向こう側には4階建てほどのビルが見える。壁面に「山月」とある。ここが元脇本陣の[駿河屋]跡であり今は料亭とか。岸を挟んだ向こう側に「なばなのさと」の富士山をあしらった大観覧車が見える。私も数年前にこの観覧車に乗ったことがある。目の前の鳥居から200㍍ほど歩いたところに饂飩屋さん「歌行灯」があった。この店こ来るのが楽しみであったので当然のようにお昼を食べに入る。

食後、歩き出してすぐに「春日神社」の「青銅鳥居」がある。県の指定有形文化財になっている。鋳物業で栄えた桑名のシンボルという。門の下に古い石碑がある。彫ってある文字が読みづらいが、ここは「しるべいし」と書かれているようだ。「しるべいし」は「迷い児石」とも言われ人の大勢集まるところに立てられました。同じものが多度大社の鳥居の横にもあります」と書かれたボードがあった。

桑名城の堀を左手に見ながら進む。桑名城城壁は創建当時のもので市の文化財になっている。日本橋から京都三条大橋に至る東海道53次をモチーフにして作られた公園横を歩いてゆく。「柿安本店」「桑名市博物館」前を通り先に進む。「鍛冶町」と書かれた通りを過ぎる。このあたりは至る所に「東海道」と彫られた石碑が建てられている。「天武天皇社」ほかいくつもの神社やお寺を見ながら進む。「①383,2㎞」の表示。此処までの東京からの距離が書かれている。「矢田町」を過ぎる。それにしてもこの通りには多くの神社とお寺がある。

ひときわ大きな「伊勢両宮常夜灯」があった。街道の道しるべ、と伊勢神宮への祈願を兼ねて創られたと説明されている。少し先で街道は町屋川という大きな川で分断されその角に「すし清」という料理旅館が建っていた。「東海道53次町屋橋跡」の説明ボードが立っていたが、文字が小さくかつ汚れていて、残念ながら読む元気がなかった。

「町屋橋」を渡り「橋本橋」を渡り「一里塚」を見、「TOSHIBA」の大きな看板を見ながら朝日駅に差し掛かる。「朝日跨線橋東」の信号を過ぎる。短い桜並木の手前の民家の塀に「東海道はこちらでござる」と書かれた手書き文字が見えた。桜と言えば今回の街道ウオークは少し時期が早いとはいえ、たっぷり桜花を観賞できた。

「柿」の信号を越え「朝明川」を渡る。今回2度ほど出会ったが「力石」の展示と説明ボードがあった。説明を読んだがこの石が生活にどういう役割を果たしたのか理解できなかった。「シーボルトの名前」も、時々街道筋に登場するが、ここ「松寺」の地には「18263289時頃江戸に向かってここを歩いていた」という、まるで昨日の出来事のような具体的な表示説明があった。

「松寺立場跡」を過ぎ「蒔田」の信号近くで若いカナダ人の男性に会う。この若者は「東海道Martin」と書いた縦1メートル横幅40センチほどの大きな幟(のぼり)を自分のリュックに突き刺していた。フランス系のカナダ人で24歳で27歳の奥さんは日本人だという。日本で英語の先生をしているようだ。東海道は山の中や田園の中の道が少なく、街中が多いこともあり、同じ志を持って歩く旅人にばったり出会う機会が中山道と比較して少ない。反対方向に歩く人と出会っても、道の向かい側であれば、立ち止まって挨拶も出来ない。しかしこのマーチン君は、同じ側でしかも大きな幟を立てていたのですぐに意志疎通が出来た。各々のホームページのアドレスを交換して別れた。

「富田の一里塚跡」「八幡神社の力石」「南富田町の常夜燈」を過ぎる。少し先にまた「力石」があった。今度は子供用19㎏と大人用32貫が並んで置いてあった。子供用がキログラム表示で大人用が貫表示になっている。

「茂福神社」の前を過ぎる。ここまで、数知れぬ神社、数知れぬお寺の前を通って歩いてきた。日本は何と神社、お寺の多い国か。

「羽津」という所に「かわらずの松」があった。戦前には多くの松があったが現在四日市市の街道筋には日永地区とここの2本しか残っていなという。「五差路交差点」の信号で「なが餅」の看板を見たが「笹井屋」本店が反対側の街道筋にあった。お土産に一つ購入。

大きくて立派な「三つ谷の一里塚跡」の石碑を過ぎる。そして左方向に四日市コンビナートの煙突群を見ながら「三滝橋」を越えれば「諏訪神社前」の信号灯が見えた。神社前を過ぎると商店街に入り「大きなろくろ首」の人形に見降ろされながらホテルに向かった。大きな通りを越えればホテルは近かった。

 

 





第ニ日目  四日市駅(宿)830発~井田川駅(宿)1505分 

                                2843( 

四日市シティホテルアネックスは足場のいいところにあった。
 いつものように8時から朝食を摂った後出発。

すぐに小さな橋「落合橋」を渡る。早速道端の「東海道」の道路標識にお目にかかる。この町も又街道歩きの人間に親切なようだ。

すぐ「大宮神社」前を通る。このあたりはすでに桜は満開のようだ。「日永神社」を過ぎる。日永は「ひなが」と読む。「東海道名残の一本松」に出会った。昨日四日市々内の街道を歩いていた時に出会った一本松の説明板には、「今はここと日永の2本しか残っていない」と書かれていたその一本松がこれだ。松自体は大変大きく、幹が鋭角に折れ曲がっていて本来の松の形とは少し違う。

 

「近鉄泊駅」の矢印看板を見て通る。街道の左手に「東海道日永郷土資料館」があったので入る。男女二人の説明者に豊富な展示物の説明を受ける。ただ壁をうずめた往年の名画「会議は踊る」や「未完成交響楽」「青い山脈」「また逢う日まで」などのポスターの貼られてある所以が理解できなかった。これから我々が登る「杖衝坂」に芭蕉も登ったという説明もあった。ここで30分余り過ごさせてもらいお二人を記念写真に収めて辞した。再び国道に合流しそしてまた旧街道に入る交点に「史跡・日永の追分」があった。その後「近鉄追分駅」前を通る。

 

「小古曾」まで3,5㎞、采女まで6,2㎞」の横長掲示板を見る。この地域は至る所に方向指示板があり街道歩行者にとっては有難いことだ。「近鉄内部駅」の矢印を過ぎ「小古曾郵便局」を見たが今日は日曜日で残念ながら街道貯金は出来ない。名前のわからない橋を渡り、渡り切ったところで一旦橋を下り、橋の下を潜って向かい側へ渡る。街道には時々こんなところがある。迷いやすいスポットだ。

Max Valu」というスーパーで飲み物を購入し手洗いを借りる。

「杖衝坂」の登り口に差し掛かかる左手に「内部街角博物館」があった。ここは日永記念館ほど時間は掛けずに出た。「杖衝坂」は急峻ではあるが長くないので、あっという間に登り切った。登り切ったところに「血塚社」。なお「杖衝坂」は、日本武尊が苦労した坂であり芭蕉の「歩行(カチ)ならば杖つき坂を落馬かな」の句でも知られる。

再び国道に合流。右手に派手な色合いのゴルフ練習場が見える。「豊富神社」を過ぎ「自由ヶ丘」の信号灯などを過ぎる。数百メートルぐらいでまた一号線とは別れる。旧道に入ってすぐのあたりに「石薬師宿」の表示に出会う。どうやら石薬師宿に入るようだ。

「これより南・信綱かるた道」と説明板あり。信綱の故郷のこの地に1,8㎞に渡って信綱の句柱が立っているようだ。まず「四日市の時雨蛤(しぐれ)、日永の長餅の家土産(いえずと)まつと父を待ちにき」を見る。

このあと道端に書かれた信綱の句碑と共に歩く。この間70歳ぐらいのおばさん、小学生らしき女の子にこんにちはと声をかけられた。石薬師宿の「小沢本陣跡」を見つけた。古文書も残っており、元禄の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭の名前も記載されていると言う。玄関わきには「小澤晋」と書かれた新しい表札が架かっている。後裔の方が今も住んでおられると云う事だ。「天野記念館」「石薬師小学校」前、「石薬師文庫」「佐々木信綱資料館」前を通る。依然として「信綱かるた」は道端に続いている。その為だろうか、なんとなくこの宿場は文化の匂いがする。

 

「るりこ橋」という国道1号線を跨ぐ跨道橋を渡ると、すぐ右手に土地名の由来となった威厳ある石薬師寺。その先「かまがわ橋」を渡ると「庄野宿」が近付いてきたようだ。「石薬師の一里塚」説明表示板の片隅に「くたびれたやつが見つける一里塚」という江戸時代の川柳が控えめに小さく書かれていた。近くに「これより北・信綱かるた道」と書かれてあったところから判断するに、どうやらこの地点が石薬師宿の南西口になるようだ。

「庄野町北」「庄野町西」の信号。この辺りは国道筋に入ったり出たり、あざなえる縄のごとくもつれて進むところがおおい。「庄野宿」の立派な表示石柱を過ぎてから暫くの間、畑の中の道を歩く。そして又国道に合流。そしてまた離れる。このあたりから、まさに宿場らしき家並みが続く街道になる。「指定建造物旧小林家」「庄野宿資料館」「庄野宿本陣跡の石柱」「高札場跡」古い民家が続くこの界隈は、まさに旧街道、旧宿場の雰囲気がある。[従是東神戸領]の石碑辺りから少し先に満開の桜樹があり、更に行くと「中富田一里塚」跡。中富田は亀山領と神戸領の境界にある集落のようだ。一里塚の樹木は榎であったという。今は立派な新しくて1mを超す石碑が立っている。「従是西亀山領」の随分古い石碑。しばらく先に「いろせ道」と彫られた石碑。そして「極楽山・地福寺」と大きな常夜灯を過ぎ、関西線の踏切を渡り暫く歩くと、左手に普通の民家のように見える駅があった。これが本日の終着点「井田川駅」。不運にも1時間に一本の電車が出た直後であったので、この駅で1時間近く待たされることになった。

駅前にはまだ新しい「日本武尊の像」が安置され、その横には「大和タチバナ記念植樹」の縦長石碑があった。


東海道第13 日目  

                                   28・4・18()20()
        
        初日18日 井田川駅1130発~関
16:45分 歩数25835

        2日目19日 関830発~土山1600分   歩数26132
        3日目20日 土山8:30発~三雲駅15:07分  歩数33488

今回が最後の23日の宿泊の旅になる。距離的には日帰り可能なのだが、鉄道とのアクセスの関係上、どうしても2泊が必要になった。特に土山には宿泊設備が殆どないと聞いたので、昨年に予約しておいた。宿の名は「大安旅館」。今回の東海道行脚で宿泊した唯一の日本旅館だ。二日目の朝、亀山第一ホテルに前田君ご夫妻が来られて、前日歩き終わった東海道上のポイントまで私たちを送ってくれた。お蔭で時間のロスが大いに節約できた。

    初日18日 井田川駅1130発~関0000分 歩数25835

前回の終着点、JR井田川駅前の日本武尊像を横目に見てスタート。歩き出してすぐに珍しいものを見た。「旧井田川小学校跡」の古い石柱の後ろに「二宮金次郎」の、昔から見慣れた、背中に柴、両手に本、の石像が立っていた。昔は至る所で眼にしたが、最近では久しくお目にかかったことがないものだ。

「川合町北」の信号を越え「法悦題目搭」への方向指示板を見て「川合椋川橋」を渡る。

そろそろ空腹を感じ始めた頃「七色食堂」という大きな看板を見た。これ幸いとばかりにここで昼食を摂る。

「和田一里塚跡」植えられている木は榎ではない。これは地名にもある「椋」の樹なのだろうか。「亀山ローソク」会社、「能褒野神社」を過ぎ、どうやら亀山宿に入ったようだ。亀山本町郵便局があった。例により千円貯金。

「江戸口門跡」「亀山城跡」の標識を見て商店街のような通りに入ると、ビューティサロン樋口の前に「樋口本陣跡」と書かれた木製標識が架かっていた。これは多分個人的に立てられたものであろう。その粗末さでわかる。

「高札場跡」を過ぎ「遍照寺」前を過ぎると大きな石碑「東海道亀山宿」があった。宿内には「庄野宿⇔関宿」6㎞の方向掲示板。弥次さん喜多さんの人形をあしらった宿名案内板もある。「亀山城西の丸外堀」の縦長石碑がある。亀山宿から次の関宿へ至る街道上に国の有形文化財「森屋住宅」があった。

明治天皇がお休みになってお茶料として3円を置かれたという「内池家主屋」を過ぎ「史跡野村一里塚」跡の石碑に会う。「布気皇館太神社」を過ぎてしばらく行くと舗装された道路の両側に桜樹の植えられた並木道に入る。遅い八重桜だろうかまだまだ妖艶なピンク色が緑の中に居座っている。

[鈴鹿川]を越え、小野川橋西詰の信号を過ぎると「関宿」の大きな表示板。そして何かで読んでいた「関の小萬のもたれ松」。親の仇討ちを志す修業時代の小萬が、難を避けて一時姿を隠したという松の木。このあたりから関の街並みに入った。

東西1,8㎞に及ぶ関宿は先回歩いた有松の宿同様、古い町並みがそのまま残っていて江戸時代に帰ったような雰囲気を醸し出している。有松より長い町並みである。「百五銀行」の建物が印象的だった。[関まちなみ資料館]「問屋場跡」の石碑、「川北本陣跡」「伊藤本陣址」、両替商「橋爪家」、そして郵便局の隣に「玉屋歴史資料館」。この宿場は日を改めてゆっくり見に来る値打ちがありそうだが、今日は街道歩きの身、ゆっくりもしておれない。「明治天皇開行在所」の石碑。「関宿西の追分休憩施設」を過ぎると関の宿場の西出口になる。

「街道おんな唄」の石碑あり。「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨の春、負けないわきっと咲く、花はつぼみよ関の宿、うす陽もこぼれる石畳」。


大きな関宿の塔屋を今日の東海道の終着点として、JR関の駅に戻ることにした。今日は関から電車で亀山に戻り一泊する予定。

    


            2
日目 19日 関830発~土山1600
                            歩数26132

朝、亀山第一ホテルに前田清さんご夫妻が来られて、私たちを車で昨日のウオーキング終了地点まで送って頂いた。

[新所町]と電柱に表示がある場所から歩き出す。今日もお天気は良く雨の心配はなさそうだ。歩き出した辺りの両側は、まるでゴミ捨て御殿のようなところであったが、すぐに「観音山公園」の地帯に入った。「関海洋センター左200m」の看板を過ぎて美しい林道を歩く。「鈴鹿川」にかかる「市瀬橋」を渡り[市瀬公民館」を過ぎる。細い舗装道に「国道1」の表示があるがこれが国道一号線かしら?

289mといわれる「筆捨山」は前方に見える山なんだろうか。十字架型の古くて文字が読みにくい表示板には「鈴鹿峠4,5㎞?」の文字。「沓掛」という村を通り「坂下郵便局」を通り「鈴鹿馬子唄会館前」に至る。会館は街道の左下に見え、名前とは相いれない対照的な新しいデザインの建物である。道の左側約100mの長さに沿って、日本橋から京都三條大橋までの東海道53次の宿名が書かれた柱が立っている。

左右に杉の樹が林立する美しい道を通り抜けると小さな「河原谷橋」があった。このあたりから坂下宿に入ったようだ。幅の広い道路、人っ気のない村落、「松屋本陣跡」の背の低い石碑が立つだけの寂しい町並みだ。解説書によると西に鈴鹿峠を控えるこの宿は、かっては峠から下りてきた人、これから峠道に挑む人で大変賑わったということだ。道路際の説明板には「東海道を近江から鈴鹿峠を越え伊勢に入った最初の宿場である」と書かれている。ここが伊勢だという感覚は私には無かった。「大竹屋本陣跡」という数十センチほどの高さの石碑が電柱の陰、ごみ集積所のボックスに隠れるようにして立っていた。続いてこれまた背の低い石碑「梅屋本陣跡」があった。本陣が一つではないということで、かってこの宿が大いに賑わっていたことは推察される。「小竹屋脇本陣跡」の石碑も見た。

「片山神社」から鈴鹿峠の上り坂が始まる。道端のボードには「この辺りから鈴鹿坂八丁二十七曲がりの急坂が始まり、東の箱根峠、西の鈴鹿峠と云われた街道の難所…」と書かれている。半円形の芭蕉の句の石碑があった。「ほっしんの初めにこゆる鈴鹿山」。

 ただ鈴鹿峠はあっけなかった。少し登りだしたと思ったら「あれ?もう峠の頂き?」。箱根峠や中山道の和田峠を経験している身にはこの峠は全く楽だった。もっとも案内書にもそれをにおわす文章があったが…。

「馬の水飲み鉢」を横目に見て日林の中に「是より京まで十七里・右近江の国、左伊勢の国」の縦型石碑。峠の頂上は茶畑の中を行く爽やかな東海自然歩道だった。

[土山宿]に入ってすぐに郵便局を見つけたので例によって街道貯金をした。通帳に押された印鑑は(東海道49番宿場町土山郵便局)となっている。中山道歩きで「草津矢倉郵便局」から始めた街道千円貯金は、東京日本橋郵便局で折り返し、この土山郵便局で100局目になった。局員の女性にそれを話すと記念にキッチンペーパーを差し出された。 土山宿も落ち着いた古い町並みで旧街道の雰囲気が満ちていた。

 また国道に出る。1号線だろう。また我慢の時間が始まった。今は営業していない「山賊茶屋」という建物が道を挟んだ向かい側にある。その後国道を離れ右側の街道に入る。すぐにモニュメントに出会う。「山中川」を渡ると「茨功記念碑」の石碑、「鈴鹿馬子唄の碑」のそばには、馬を引いた馬子の石碑が立っている。

国道へ又入る。「猪鼻村」の石碑。国道を離れ静かな村落に入る。このあたりが猪鼻村なのだろう。「海道橋」という赤い欄干の小さな橋を渡ると「田村神社」の境内に入る。高札場跡の石碑が鳥居の近くに立っている。時間に追われてもいないので参拝することにした。道を隔てた神社の向かい側に「蟹ヶ坂飴」の店と「あいの土山道の駅」があるので立ち寄ることにしたが、両方とも「本日休業」。今回の街道歩きで何故か「本日休業」に出あってしまうことが多い。

「東海道土山宿」の石碑から土山宿が始まる。20年ほど前に一度ここを歩いたことがある。[東海道傳馬館]53次土山宿」の門柱に挟まれた奥に「文豪森鴎外来訪の地」と彫られた石碑が見える。 今夜の宿は東海道を歩き始めて初の日本旅館「大安旅館」。

3日目 20日 土山830発~三雲駅1507分   歩数26132

3日目の朝だ。今日もスタートは830分。昨夜の宿泊が今回では最後の泊りになる。次回からは日帰りの予定。

しばらく舗装された道を行く。「大黒屋本陣跡」「問屋場跡」「高札場跡」の3本の石碑が並んで立っている。30分も歩くと印象的な橋に出た。「土山のマジソン郡の橋」こと屋根付き橋の「歌声橋」。長さは100m あるかどうかの橋だがとても印象的な橋だ。

「瀧樹神社」を通る。通りは静かな如何にも街道筋といった雰囲気。松並木通りに出る。まばらではあっても街道には松並木が良く似合う。松並木に出会うと落ち着いた気持ちになれる。街道でスチル写真と共にビデオ撮影を今日までずっと続けてきたが、今日は各々のウオーキング姿をビデオカメラに収めようと、演出して互いのウオーキング姿を正面からビデオに収めた。

大野小学校に隣接する公園で小休止を摂った。静かなお昼前が、10時のベルと同時に一斉に飛び出してきた小学生でたちまち喧騒の世界に豹変した。「どこへ行くの?」「何してるの?」元気な質問が私たちを取り囲んだ子供たちから次々浴びせられる。ここで20分休憩した。

又村落を歩いて1号線を横断する。そしてまた静かな住宅街が続く。公民館を過ぎる。まだ土山ゾーンなのだろう。また1号線の側道をしばらく歩いて左の道へ逸れる。ここまで来ると水口エリアらしい。「水口宿」と書かれた表示は時計台の下にある。「日本橋から112里の一里塚跡」、片側だけだが土盛りしたマウンドに樹が植えてある。

ここで珍しく街道ウオ―カー二人に出会った。
一人は埼玉県から、もう一人の方は神奈川県からのウオ-カー。(右写真)暫くはあとになり先になって歩いた。埼玉からの人は今日石部まで行きたいと云う事で、神奈川からの人は今日は一旦家に帰ると云う事であった。

「東海道水口宿」の門をくぐる。高札場の二差路のくさびポイントを左の道に入る。ここまで来て人に出会うことが多くなってきた。どうやら水口は今日お祭りの日らしい。やや遠見遮断になった村の中の道は静かで歩きやすい。見通しの良い畑道に出、また村に入る。 国宝地蔵尊]の前を過ぎるとまばらな並木道に入った。「こんにちは!」角を曲がって来た数人の子供達に元気よい挨拶をされた。やがて川のつき当りに[元渡し場]があった。冠木門の横には巨大な常夜灯。「東海道横田の渡し」だった。目の前の川は「野洲川」か。このあたりは川幅が大変広い。

また1号線沿いの道に入る。しかしそれもつかの間、「JR三雲駅」前に出た。今日はここまで。次の電車は327分発。20分ばかりの待ち時間だ。


東海道第14日目  

                          28519() 快晴
           三雲駅950発~草津16:00分 歩数28500
     

今回から東海道行脚始まって以来はじめての「日帰り」になる。距離的には鈴鹿峠をこちら側へ越えれば距離的には日帰りエリアなのだが、生憎、水口、土山宿界隈は鉄道とのアクセスがない所なので、京都に近づきながら宿泊を余儀なくされた。今回草津までは16㎞。日帰りで歩行距離としては最適な距離だ。

      19日 三雲駅950発~関1600分 歩数28500

948分三雲駅に到着。

 今日は駅前には中学生らしき子供達で一杯だった。

前回離れた東海道にまっすぐ歩いて出る。「微妙大師萬里小路××」の大きな石碑を過ぎ「明治天皇聖蹟」のこれまた巨大な石碑を過ぎる。「立志神社」「田川ふどう道」と読める石碑など3本の石碑前を過ぎ「()石部宿場()水口宿場」と書かれた道標を見る。道端になんだか奇妙で、その場にそぐわない様な新しい石造りの灯篭が立っている。


「天井川」のトンネルの近くに「おもてなし処」「三雲城」「猿飛佐助甲賀流忍者の里」などと書かれた板がべたべたと張り付けてある休憩所のような小屋に到着。少し中を見せて貰う。「天井川」に登ってみたが狭い川には水は無かった。「弘法杉」と云う説明板があるがどれがその杉なのかわからなかった。「東海道
53次石部宿 三雲城跡と八丈岩」の説明ボードを読んだが城跡には行かなかった。


暫く先に「夏見の里
(藤棚)」という説明アルミボードがあった。ここに「いなりや」という茶店があり広重が描く店として紹介されているという説明であったが「保永堂」版の広重の絵はこのアルミボードの絵とは違っている。このあたりの地名は夏見らしい。暫く先には「夏見一里塚」の説明ボードがあった。この一里塚も「昔此処に一里塚がありました」と説明されているだけで、塚そのものの跡はなく、ボードに貼ってある写真は、ずいぶん前に通り過ぎた愛知県「笠寺の一里塚」の写真というのも苦肉の表現だ。暫くしてまた「石部宿一里塚()」のアルミボードがあった。このあたりは「立場」跡で当時はここの名物トコロテンや名酒「桜川」が売られていたようだ。

前方にまた天井川のトンネルが見えてきた。「新由良谷川橋」を越えまたアルミ製の説明ボードがあった。「針文五郎顕彰碑」。石部地域の街道説明板はこのパターンで統一されているようだ。


「ようこそきずな街道
(東海道)へ」と書かれた無料休憩所があったので小休止をとった。

地酒・蔵本北島の暖簾が目につく「北島酒造株式会社」の建物を過ぎ、「国指定天然記念物・うつくし松」の例のアルミボードを過ぎ、小さな「家棟川」を過ぎまたアルミボード「高木陣屋跡」「八島寺地蔵堂」を過ぎるとみすぼらしい木製看板「これより石部宿」。

「石部東」の信号、「あけぼの幼稚園」の看板、「東の見付跡」のアルミボード、「吉姫神社」を過ぎる。更に「石部城跡」「高札場跡」「お半長右衛門」「安眠米倉庫」のアルミ説明板が続いて立っている。ちょっとした和風の壁に芭蕉の句「都つじいけてその陰に干し鱈さく女」が見える。


通りに面して椅子もあるちょっとした空間があった。石組の上に設置された時計の針は
1215分を指していた。また「常盤館跡」「問屋場跡」のアルミボード、すがすがしい田園風景の中を歩き、しっとりした宿場の中を歩き「いしべ宿駅」と書かれた建物の前に来た。一見の民家をそのまま使ったような、無人の記念館で少し中を見学させてもらった。


ここに貼ってあった広重の絵は保永堂にある広重描く石部宿の絵と同じだ。また「明治天皇聖蹟」の石碑、続いて「石部本陣跡」の石柱、明治天皇が宿泊された小島本陣だったという。「いしべ田楽茶屋」と説明アルミボードがあった。

石部宿の西出口に当たる「石部宿西縄手」の説明ボード、「五軒茶屋道と古道」のボード、この宿特有のアルミボードの連続の中に文字が読み辛い古い石碑も並ぶ。「これより一丁餘」と書いてあるのだろうか「新善光寺道」の縦長石碑。街道説明分の中にも書かれていた家康の腹痛を治したという。

「史跡・旧和中散本舗」の旧邸の前に差し掛かった。家康がこの薬を「和中散」と命名したという。
2mぐらいの高さの石碑「東海道一里塚」の横面には「和中散のまち六地蔵/東へ至石部の宿」と彫られた文字が見える。

六地蔵村両替商「茶太」の建物、六地蔵会議所を過ぎた辺りで右を見ると近江富士と呼ばれる「三上山」がはっきりと見えた。「肩かえの松」「手原一丁目」の信号、「厚進学校前」の石碑、「稲荷神社」前にはまた「明治天皇手原御小休所」の石碑。その先暫
く歩き右手の方角に三角屋根の「
JR手原駅」が見えた。「足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地」の大きな石碑。

「上鈎東(うえまがりひがし)」の信号、を過ぎる、この先で東海道が正面に、中山道が右側面に書かれた石碑を見る。


草津に近づいているこの辺り、中山道にも近い位置になるだろう。「目川ひょうたん展示販売」の看板のかかった古い家の前を過ぎていく。



「東海道一里塚
(草津宿まで半里)」の石碑は結構古い。当時は椋(むく)の樹が植えられていたと説明板にあった。椋の木が一里塚に植えられるのは珍しい。たいていは榎、または松が主だったという。それにしても、もう草津まで2㎞の距離にまで来ていたのか。草津では中山道と合流する。何年か前に、草津宿からを東へ向かい中山道をお江戸日本橋まで歩いた。「目川立場・田楽茶屋 元伊勢屋跡」の木製ボードを見て前に進む。「田楽発祥の地」の大きな石碑。「目川田楽・京いせや跡」の石碑も2mはありそうだ。「ヤマキ商店」「ほっこり庵」はお休み処。お酒や足湯の幟も立っている。芭蕉句碑があった。「草の戸や日暮れてくれし菊の酒」(元禄四年 芭蕉)


暫く先に珍しい立札があった。曰く「史跡 老牛馬養生所跡」。置いた牛や馬に余生を静かにすごさせる施設があった跡だという。堤防らしき草むらに突き当たった。右折して堤防沿いを行く。「わが町のシンボル いろはモミジ」と彫られて石碑はまだ新しい。樹高
9m 推定樹齢150年以上 周囲200㎝。草津の銘木となっている。「小汐井神社」前を通り「サカエマチ」のと書かれた草津の商店街アーチ下に入る。今、この辺りは道路修理中で最後の何百メートルかは本来の旧街道ではない迂回路を歩かざるを得ない。

そして、印象に残るあの中山道との追分「天井川の下」のガード下に到達。あの大きな常夜灯の下にやって来た。今を去る6年前の622日、この常夜灯の下を通りお江戸日本橋への遠い道に入って行った。あれからほぼ6年後の今日、日本橋をUターンしてここへ戻ってきたことになる


 




東海道第15日目  

                          28615() 快晴
         草津駅発950~大津札の辻16:30分 歩数27222
     

15回目を迎えた「東海道東から西へ」も、いよいよあと2回を残すのみとなった。

そして今回のルートは6年前に、中山道を東京へ向かって歩いたと同じ道になる。草津と京都三条大橋間は、両街道が共有しているからだ。歩行途中で見つけた草津矢倉郵便局、どうも見覚えがあるような気がした。それもその筈、6年前、中山道に向かって歩き出した平成2210月、この郵便局に入り貯金したのが街道貯金のきっかけだった。6年かけて、約1000㎞の距離を歩き、東京日本橋でUターンして帰って来たのだ。いわばあの日から、私も6ツ歳をとったことになる。あの時はまだ満74歳だったのだ。

      615 草津駅915発~大津札の辻1630分 歩数27222

914分草津駅に到着。早速先回離れた東海道に入り歩き出す。取り敢えず、前回時間切れで入れなかった「草津宿本陣」に入る。前にも書いたように東海道で建物内部を見学できる本陣()は二川宿とここ草津宿だけである。建物内部のスケールは二川宿とほぼ同じほどだ。

和宮の食事献立の一例が陳列されている。(和宮は中山道を経由して江戸へ降嫁されたが、この辺りは東海道との共有道路)。ところでここ草津本陣にある宿泊名簿の最後の記載は、明治七年の「静寛院」となっているのだが、「静寛院」とは明治七年の13年前、ここに立ち寄り中山道を通って徳川第14代家茂に嫁いでいった、あの和宮の出家後の名前である。家茂死去のあと、京都に帰っていた和宮が、総勢僅か16名で再び江戸へ帰る途次立ち寄ったとある。ではその時一行が歩いたのは、中山道だったのか東海道か,どちらの道を使ったのだろうか。

また、ここにも明治天皇が来られた記念碑が立っている。明治天皇小休止の碑は中山道でも,東海道でも至る所で見かけてきた。

 さて本陣跡を十分時間をかけて見学した後、斜向かいにある脇本陣跡へは立ち寄らず「草津宿街道交流館」に立ち寄る。

中山道由比宿でも同じような経験をさせてもらったが、ここでも浮世絵刷りの体験をさせてもらった。

「矢倉立場」を過ぎると「稲荷神社」の鳥居の前に来る。伏見稲荷にも似た赤い鳥居のトンネルが見える。次に見るのが冒頭に書いた「草津矢倉郵便局」。局員の女性に6年前ここに来たことを話したら、せめてもの心遣いかティッシュペイパーをひとつくれた。

国道一号線の表示看板は「南草津駅→」。「上北池公園」の前にはひときわ大きな文字で書かれた[一里塚]の看板。「野路一里塚」の石碑は民家の前の草むらに覆われて立っていた。このあたりに地名は「野路」。

「都久夫須麻神社」の鳥居前を通る。「野路萩の玉川」(かつては天下の名所萩の玉川も…放置するに忍びず…)(日本六玉川の一つ…)。私にはまだ「玉川]のいわれがわかっていない。

「弁天池」の前に来た。10mほどの橋が6年前には渡れなかった。「月輪寺」「明治天皇ご駐在」記念石碑、「立場跡」の石碑、「一里塚跡」の重厚な石碑、T字路の正面に「たばこ 宝くじ ぶつだん」の看板を大きく掲げた古いお店を見ながら左に曲がる。この三つの商品の関連は何だろうか? 6年前中山道を東京日本橋に向かって歩いた時、道を間違えたのはこのT字路だった。

橋を渡り暫く行くと道は右にゆるくカーブする。目の前に赤い「瀬田の唐橋」が見えてくる。この日、瀬田の唐橋は二つあると云う事に初めて気が付いた。

京津線の踏切を越え右へ曲がったところに喫茶店があった。休憩場所がなかなか見つからなかったがやっと見つけた。電気行燈に書かれた文字「Wink Mirror」がこの店の店名か?多少時間に余裕があったのでここで30分以上休んだ。

[Rohm]「衛生科学センター」「日本電気硝子」などを過ぎ「晴嵐」の信号に来る。「膳所城勢多口総門跡」の石碑、「宮町」の踏切を越える。今日「札の辻」に到着するわずかの間に 、京津線の信号を5回は横断した。あざなえる縄の如く、線路と旧東海道は、ねじれ合いながら進んでいるのだ。膳所神社の他多くの神社とお寺を通過する。「和田神社」も通る。

目的地まであとわずかの地点で想定外の夕立に遭遇した。「フレンドマート」というスーパーの前だったのがラッキーだった。ここで30分は雨宿りせざるを得なかった。同じように雨宿りする近隣に住む単車のおじさんが話しかけてきた。

再び歩きだしてすぐに「石座(いわい)神社」があり、続いて「義仲寺」。迎えてくれたおばさんが解説してくれた。「木曽義仲の首なしの遺体が此処に埋葬されている」こと。「松尾芭蕉が亡くなったのは大阪の花屋仁ざ衛門宅であったが、本人の意思で亡骸は此処に葬られていること」。ここに30分ほど滞在した。

小さな「ときわばし」を渡り、左に「滋賀県庁」を見てしばらく先には、明治24年にここで起こった、ロシアの皇太子襲撃地の石碑が道端にひそやかに立っている。その先は今日の終着予定地「札の辻」の「京町1丁目」だ。

 

東海道完歩となる次回最終回は、来月720日、私の満80歳の誕生日に、「京都三条大橋」までの11㎞を予定している。

 



  東海道第16日目  

                          28720() 快晴
       上栄町(札の辻)発1000~京都三条大橋15:00分 歩数22650
     

16回目を迎えた「東海道東から西へ」も、いよいよ最終行程を迎えることになった。最終回の距離は約11㎞、スタートはいつもより遅めにした。

最終回の東海道行脚は、私の満80歳の誕生日に当たる720日に決めた。暑い日だった。京津電車「上栄町駅」に下りたら、前田清君ご夫妻が待ち受けてくれていた。失礼ながら来られるかどうかは50%の確率と思っていた。昨夜は琵琶湖ホテルに泊まられたという。すぐ近くの「蝉丸神社下社」まで一緒に行ったが、参拝後いったんここで別れた。

安養寺を過ぎ、大谷加圧ポンプ場の鉄扉前を過ぎると、「旧逢坂山ずい道東口」。ここは鉄道記念物となっている。大正10年まで立派に東海道本線下り線のトンネルとして使われていたという。ここを知っている人はそう多くはないと思う。扁額と呼ばれるトンネル入り口の上部には「楽成頼功」の文字の左に「三条実美」と彫られている。

このあたりは緩く長いい登り坂が続く。やや行くと「蝉丸神社上社」が広い国道の右側にある。今日は時間に余裕があるのでここへも立ち寄ることにした。急激な登り石段を登る。百人一首にある光孝天皇の詠「君がため春の野に出でて若菜つむ 我が衣手に雪は降りつつ」を見る。

その後「弘法大師堂」前を過ぎるとすぐに逢坂山の峠に来る。何度も見た「逢坂山関址」の石碑。その左手には「逢坂山常夜灯」。手前側の壁には例の有名な蝉丸の詩「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」。

さて今日はお昼をこの峠の名代のうなぎ屋「かねよ」で食べることを楽しみにしていた。前田君ご夫妻が電車で先に到着していた。あの熱田神宮の近くの鰻屋さん「蓬莱軒」以来のうなぎ屋での会食だ。今回は前田君の奥方も一緒。ウイークデーの11時過ぎと云う事もあって、店は空いていた。会食後近くの京津電車の「大谷駅」でご夫妻とは別れる。

目の前のオーバーブリッジを渡り旧国道1号の反対側へ出る。何度も訪ねた「月心寺」は閉鎖中だった。「大津警察署藤尾交番」のユニークな建物の角を左に進む。「蓮如上人御塚」の石碑の前がY字型の三差路になっており、右が「東海道53次」左の道は大阪高麗橋に進む「東海道57次」に分かれている。ここが追分だ。今日は当然右へ進む。

少し先の家の軒先にハイビスカスが大きく開いているのを眺めながら、しばらく行くと方向掲示があり、再び陸橋を登って国道の向かい側へ渡る。登り口には親切な案内表示が貼ってある。

花崗岩を敷き詰め牛車や大八車の通行を助けた「車石」を経て、「三井寺観音道」への大きな案内石碑の立つ三差路を過ぎ「山科四宮郵便局」で、中山道以来109局目の1000円郵便貯金をする。当然貯金通帳には109局分の数字が刻み込まれている。郵便局だけでも109局に立ち寄ったのだなと感慨も一入。

JR山科駅に近づいた。以前にも立ち寄った「山科めぐり地蔵」で写真を撮り、右前方に「JR山科駅」を見て西へ進む。ここで街頭の時計は午後15分を指していた。住宅街の前方に学生らしき3人の男性が屯している。近付くと足元に燕の親鳥が横たわっている。天敵にでも襲われたのか苦しい息遣い。「植込みの陰にでもおいてやって」と学生に頼んだが、それ以上どうすることもできない。近くの家の軒先に巣があるのではないかと何軒か探したが見当たらなかった。

「陵ケ岡天智天皇陵」の京阪バス停留所を過ぎ住宅街の中を歩く。最後の緩い上り坂を終えると、先ほどの国道に再び合流。すぐに俵がつんである小さな空間に出る。平成9年の京都市営地下鉄東西線開業を記念して車石を利用して作られた広場となっている。

さて道はどんどん下る。「蹴上浄水場」を過ぎる。この通りは「三条通」と呼ばれているようだ。「三条神宮道」の信号に行くまでに、今まで立ち寄って来た郵便局より一回り小さな「京都三条広道郵便局」があった。中山道から東海道を歩いて立ち寄って来た郵便局の最後の110番目の郵便局だ。中山道で50局、東海道で60局に立ち寄ったことになる。

私の好きな白川に架かる橋の上に「白川子供夏まつり」と書かれた横断幕が掛けられていた。川を覗くといつものように柔らかい水が静かに流れていた。

さて東山通りを過ぎると、いよいよ足取りが緩くなりラストスパートの態勢になる。この辺り道路が緩くカーブしているので、インターネット氏も書いていたように、目指す三条大橋が200メートルぐらいの距離に近づいても目の中に入ってこない。と思っている間に、高山彦九郎の銅像が急に頭上に現れた。この時季は木の茂みでその姿も東側からは見え難い。

遂に三条大橋を西へ渡る。

渡り終えたところには弥次さん喜多さんの銅像が立っている。添えられた看板に「道中安全祈願」と書かれている。銅像が建てられたのは1994年だという。

これで中山道を西から東へ歩き、日本橋で引き返して、帰途は東海道を東から西へ向かって三条大橋に帰り着いたことになる。総距離は、公称で1023キロ、途中道に迷ったり、歩き直したりしたので1050キロメータほど歩いただろうか。中山道で2941日、東海道で1634日、合計45回、75日かけたことになる。この両街道だけで約155万歩、美津濃の革製トラッキングシューズの裏底はすり減って新裏底に張り替えた。

東海道は山歩きが好きな、甥の小西恵二と一緒に歩いた。ほぼ一回り半年齢の違う定年直後だった。常備しているタブレットが威力を発揮した。もし彼と一緒でなければ、回数は16回以上になり、34日はもっと日数がかかっていただろう。二人とも大きな事故も怪我もなく、無事完歩できたのは幸運だった。

三条大橋近くで妻の孝子と、恵二の奥方和代と高瀬川沿いの「小川コーヒ」で落ち合った。東海道無事完歩を祝って、今日は会食することになっていた。昼は鰻だったので、夜は恵二の好物の日本蕎麦にした。場所は麩屋町の「河道屋」。

これで私個人としては「中山道」「伊勢本街道」「東西高野街道」に次いで今回の「東海道」の四街道を踏破したことになった。

        以 上